老境にさしかかってもなお生きようと思えるのは、まさに事件があったからですよ。私はブンヤ(新聞記者)。このままでは死ねない。私個人の名誉のためではない。歴史にはまだ、日本政府が密約を結んだことが正式に記されていないのです」
西山の人生は事件によって一変した。だが、汚名を着せられた日々がむしろバネになったと西山は言う。
「人は私を『闘士』のように語り、強いと言うかもしれません。でも、決して強くはありません。ただ、そう生きざるをえなかっただけなのです。まだ死ねないでいるのは、あのとき国がついた〓のため。でも、それが、私に生命力を与えたとも言えるのです」
西山が戦い続けることは亡き妻の願いでもある。
(取材・文/諸永裕司)
野村克則 元プロ野球選手
「いま、やっと両親の気持ちがわかった」
「野村克也の息子」という形容は、野村克則(40歳)の人生に常について回った。大学時代までは比較されるだけだったが、プロに入ると、マスコミの好奇の目が容赦なく襲ってきた。
「ヤクルトに入団したとき『父親にえこひいきされている』という視線に直面しました。やがて『カツノリの存在がチームに不協和音を起こしている』といった記事を目にするようになり、そこには『ある選手によると』と書かれていた。正直、人間不信になりました。1年目2年目は、そうしたことばかりを気にしていたのが現実です」
奇しくも、ヤクルト、阪神、楽天と、3つのチームで父親と同じユニフォームを着てプレーすることになった。忘れられない出来事がある。'98年オフ、野村監督はヤクルトの監督を辞任し、阪神の監督に就任した。克則がヤクルトで、いよいよ一人立ちしようとしていた頃だった。
「'99年は二軍でそれなりに成績を残していましたが、一軍に呼ばれることはありませんでした。そんなとき、あるスポーツ紙で『カツノリは父親にヤクルトの情報を渡している。一軍に上がると、情報がすべて漏れてしまう』という根も葉もないことを書かれてしまい、球団から事情聴取を受ける事態に発展しました」
その翌年阪神に移籍、スポーツ新聞はこぞって「親ばかトレード」と書き立てた。すべては克則の知らないところで進んでいたことだった。
「結局、腑に落ちないまま大阪行きの新幹線に乗ることになりました。マスコミに叩かれることには慣れつつありましたが、このときばかりはまいりました」
本人の努力ではどうにもならない状況を支えたものは、やはり野球への思いだった。