「大阪は、大阪だ!」---おもしろ雑学を通じて個性豊かな大阪人の府民性を知る

新幹線に乗る前に、品川駅で『県民性がわかる! おもしろ歴史雑学』という文庫本を買った。軽い時間つぶしと思っていたのに、読み始めたらめっぽう愉快で、新大阪に着くまで何度一人でクスクス笑ったことか。
とりわけ、大阪の項が面白い。偶然ながら、私は大阪に向かっており、しかも大阪は中学3年の夏休みまで住んでいたので、懐かしい場所でもある。大阪弁もちゃんと話せる。だから余計に可笑しくて、大阪に着いたころには、頭の中はすっかり大阪弁モードになっていた。
ユーモラスでニュアンスが豊富な大阪弁
大阪ほど個性豊かな地方は、日本でも数少ない。自然が個性的な場所は、津々浦々いろいろあるが、大阪は人間が飛びぬけて個性的だ。ここには、大阪の常識というものが確固として存在する。そして、その常識をきっちりと守りつつ、大阪人は暮らしている。地方の画一化などという言葉は通用しない。大阪は大阪だ。
テレビで街頭インタビューを見ると、沖縄でも東北でも、町の人たちは、少なくとも標準語らしき言葉で答える。ところが、大阪人だけは、マイクが目の前に突き出されようが、テレビカメラが回っていようが、迷わずに完璧な大阪弁で喋る。彼らは、メールさえ大阪弁で書いてくる。東京に長く住んでいても、大阪弁だけで暮らしている大阪人を、私は結構たくさん知っている。大阪弁というのは、おそらく改める必要のない言葉なのだ。
そもそも大阪弁は、それだけでユーモラスだ。標準語と同じ意味のことを言っただけで、すでに可笑しい。東京人が、「ほんと?」と言えば、別に何の変哲もないが、大阪人が、「ホンマかいな」というと、一種独特のとぼけた雰囲気が醸し出される。そこに、さらに彼らの秀逸なユーモアのセンスが加わるのだから、向かうところ敵なしだ。また、私の独断と偏見で言わせてもらえば、ゆるりとした、品のある男性の大阪弁は、ユーモラスなだけでなく、ほのかにセクシーでもある。
大阪弁は、ニュアンスも豊富だ。昔、大阪から関東に越したとき、どうしても関東の言葉では表現できないと思うことがいくつもあった。「よう言わんわ」というニュアンスも出せなかったし、「も一つやなあ」もあかんかったし、「しんどい」を「疲れた」と訳すことにも違和感があった。
そういえば、ドイツ語になると「疲れた」もない。「眠い」という言葉と同じになる。ドイツに行った最初のころ、どうしてもこれに納得できず、いつも、「私はベッドに入って寝たいわけではなく、椅子に座って休憩したいだけだ」などと、余計な解説を付けていたものだ。なぜ、「疲れた」と「眠い」が同じ言葉なのか、30年経った今でもわからない。