小久保の鬼気せまるリハビリを目のあたりにして、斉藤は驚いた。と同時に、自分の甘さを知った。
振り返って、斉藤は言う。
「一軍でバリバリ活躍している小久保さんが、あれだけ歯を食いしばってリハビリに耐えているのに、全く実績のない自分ときたら……。もう自分自身が情けなくなりました。
小久保さんの野球に対する姿勢、野球への向き合い方。僕にとっては全てが新鮮で、またお手本でした。小久保さんとの出会いが、自分を変えるきっかけになったんです」
では小久保の目に、若き日の斉藤の姿は、どう映っていたのか。
「性格は素直で、スレたところが一切なかった。頭も良くて、こっちが言ったことはすぐ理解する。何を教えてものみ込みが早かったですね」
弟分の斉藤のことは、常に気になっていた。
「実は昨年春のキャンプで〝いつ辞めるんや?〟と聞いたんです。本人は〝一軍に上がれる手応えがなかったら辞めます〟と言っていました。逆に言うと昨年は、まだ復活の手応えを感じていたということでしょう。
あれだけ苦しいリハビリに耐えられたのは〝もう一回、マウンドに上がって脚光を浴びたい〟という強い思いがあったから。そうじゃなければ、耐えられるわけがありません」
'96年にドラフト1位で南京都高(現京都廣学館)からダイエーに入団。ずっと右肩の不安を抱えていた斉藤は初勝利をあげるまでに4年かかった。
最初の手術を受けた際には「次の職はどうしようか」と途方に暮れた。
「やめたら大工になろうかな、と漠然と考えたことはあります。モノをつくるのは昔から好きだったし、カッコいいな、と思っていましたから……」
入団5年目の'00年、初勝利を含む5勝をあげ、やっと将来に光が差しかけた矢先、また斉藤は右肩に痛みを覚える。骨と骨とがこすれるような不気味な痛み。'01年はわずか7試合のみの登板に終わった。