2014.08.22

呉智英 × 適菜収 【第5回】
「保守も革新も、右翼も左翼も問題は知性の欠如」

『愚民文明の暴走』(講談社刊)第一章より抜粋
『愚民文明の暴走』
著者=呉智英/適菜収
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適菜 オルテガが『大衆の反逆』で指摘したのは、大衆の質が変わってきたということです。少し前までの大衆は自分が専門分野に口を出す資格がないということくらいはわきまえていた。かつてのデモクラシーは法や自由主義により制約を受けていたが、今はデモクラシーが暴走するようになった。

大衆は、喫茶店での話題から得た結論を、実社会に強制することが正しいと思い込むようになった。これは歴史上類例を見ないことだと、オルテガは指摘しています。こうした超大衆社会においては、誰もが意見を述べ、誰もが社会に参加しようとする。「市民一人ひとりが声をあげていこう」というわけです。こうして近代は自滅に向かうのですね。

 「大衆」に似た言葉は、民衆とか庶民とかプロレタリアートとか勤労者とか国民とかあるけど、少なくともわれわれは庶民という言葉とは明らかに違う意味で使っているわけだよね。

適菜 もちろんそうです。オルテガが規定した大衆とは、貧乏人でもなければ庶民のことでもありません。身分の低い人のことでもない。まったく逆で、近代により身分社会が崩壊して、コミュニティーを失ってしまった人たちのことです。都市部に出てきてバラバラになってしまった個人が「大衆」。彼らは根無し草のように浮遊していて、近代イデオロギーに簡単に流されてしまう。

 大衆は本来仏教語の「だいしゅ」です。救われないもの、悟りに至ることができないものが大衆。それをどうするのかということで大乗仏教が出てくるわけ。近代における大衆は、適菜君が言ったような野放図で我儘で、無責任な人間。

近代以前の場合、俺は「民衆」と区別しているけれども、当時の民衆は節操みたいなものがあった。それを全面的に信頼していいかどうかは疑問だけど、やはり庶民が培っていた行動規範みたいなものはたしかにあったと思う。

ネットは、昔の村落共同体が生きていたときの井戸端会議とは違うんだ。昭和30年頃、当時はラジオだったんだけど、ラジオのアナウンサーというかレポーターが録音機をもって井戸端会議に行くと、みんな照れて話さないんだよ。それで録音機がなくなると、またみんなワイワイガヤガヤやる。自分の言説の意味がわかっているんだ。

ところが、2ちゃんねるやブログは1億2千万人の人に発信しているつもりがなくても、そうなっている。

適菜 当時は井戸端会議が私的な空間であるという程度の常識はあった。今は全部垂れ流しです。公的な空間で井戸端会議が行われている。

 うん。今は大衆の意味合いが変わってきて、人類の代表であるかのように発言している。

適菜 それでバカが開き直るようになった。無知を誇り、病気を自慢する。橋下徹を政界に送り込んだ某漫才師は、テレビ番組を使ってバカ・ブームを生み出しました。

【『大衆の反逆』】
哲学者・オルテガの代表作。現代の危機的状況を大衆の反逆という現象を通して指摘している。大衆の反逆とは「大衆が完全に社会的権力の座に上がったこと」であり、現代の特徴は、「凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張する」と説いている。

【大乗仏教】
仏教を二分する流派のひとつ。インドから中国、日本、チベットなどに伝播した。出家・在家を問わず信仰を認め、他者救済を重視している。

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