2014.10.08

石川次郎 第1回 「第1志望の高校に受かっていたら、その後のぼくの編集者人生はなかったと思う」

島地 勝彦 プロフィール

シマジ どうして若いジローが清水さんのような偉い人にそんなに簡単に会えたの?

石川 それこそシマちゃんがよくいう「運と縁」の妙だったんだよ。高校受験のとき、ぼくの学区内の最高峰だった都立西校を受けたんだけど、見事に落ちちゃった。それで第2志望の都立富士高校に入学したんだけど、そこで清水さんのお嬢さんと出会ったわけ。凄くサッパリしたコですぐ仲良しになってね。

もしそのときの出会いがなかったら、清水さんにもお会い出来なかっただろうし、その後のぼくの編集者人生はなかったと思う。こうしてシマちゃんの連載のゲストとして呼んでもらうこともなかったでしょう。もし都立西高に受かっていたら、多分、編集者にはなっていなかったと思うね。

セオ 石川さんが早稲田を卒業した1964年、昭和39年は東京オリンピックの年ですよね。

石川 そうです。だから当時は就職難なんて言葉はどこにもなかったです。ぼくなんか、4年の夏休みが終わってから、そろそろ就職活動をしようかなと大学の就職部に行ってみたら、海外専門の旅行会社の求人があって、難なくそこに就職できたわけです。

立木 なんでまた海外旅行の会社に目をつけたの?

石川 1964年というのは、ようやく日本人が自由に海外に行けるようになった年だったんです。東京五輪があったり、新幹線が開通したり、変化が大きい年でした。でもぼくには、五輪よりも新幹線よりも海外旅行自由化のニュースのほうが断然、インパクトが大きかったんです。

それで、どうにかして海外に行ってみたかった。だけど、自分では行く術がなかった。でも旅行代理店で働けばいつでも海外に行けるはずだと、そういういい加減な動機で就職したんですよ。その後2年で辞めるんですけどね。

シマジ 旅行会社を辞めたあとすぐに平凡出版に入ったの?

石川 旅行会社に就職するとき清水さんに報告に行ったら、「旅行代理店もいいけど、君、編集者にならないか?」と誘ってくれたんですよ。それまでずっと「平凡パンチ」のモニターとして清水さんにレポートを提出していましたから、清水さんはもしかするとぼくが編集者に向いていると思ってくれていたのかもしれません。

ところが、若いぼくは頭のなかが海外一辺倒でしたから、そのお誘いを辞退したんです。すると清水さんは、「編集者だってそのうち取材で海外に行けるようになるけどね」と笑いながら許してくれました。