象徴的だったシーンがある。1年目のシーズン前、二軍生活を送っていた黒田は、ある試合で1イニング限定の登板をすることになった。
黒田は、その1イニングで10失点を喫した。
投げても投げても打ち返され、ヘロヘロになる黒田。たまらず、ベンチを見る。しかし当時二軍監督だった安仁屋宗八は、微動だにしない。
カネのない広島は、選手補強ができない。若手を育成する他、道がないのだ。何点失点しても替えなかったのは、「黒田を育てる」という決意の現れだった。
己への期待を誰よりも感じたのは、黒田自身だった。打たれた悔しさはあった。だがそれと同時に、カープという球団の温かさに感謝した。
広島の正捕手として、黒田とも長くバッテリーを組んだ、西山秀二が言う。西山は引退後、巨人でコーチを務めた。
「他球団と比べても、カープってやっぱり良い球団ですよ。これほど選手を大事にしてくれる、情の深いチームは他にない。他球団なら、ちょっと悪いとすぐにクビですが、カープでそれはありませんからね。黒田も最初は二軍で、徐々に結果が出るようになっていった。カープに育ててもらったという意識が強いですよ」
カープの懐で順調に成長していった黒田は、やがてエースに。育ててくれた恩に報いるため、薄い選手層を救うため、「ミスター完投」と呼ばれるほど、黒田は一人投げまくった。
万年Bクラスの弱小時代だっただけに、打線の援護がなく、勝ち星が伸びないシーズンもあった。それでも黒田は一切不平や文句を言わず、必死に投げた。そんな黒田のひたむきな姿に、いつしかファンも強く惹かれていった。
カネよりも恩義
'06年。その年、FA権を獲得する黒田の去就は、シーズン中から注目を集めていた。
当然、巨人や阪神といった金満球団は、黒田に食指を伸ばす。
「『4年16億』、『5年20億』といった額をそれらの球団は提示していた。一方カープは、球団の金庫をひっくり返してカネを集めたが、4年12億という提示をするのが精一杯でした。残留して欲しいのはやまやまだが、マネーゲームではとても敵わない。半ば諦めていました」(広島球団関係者)
そして迎えた、'06年10月16日の最終戦。広島の順位は5位で、例年なら、広島市民球場はがらがらのシチュエーションだ。
しかしマウンドに上がった黒田は、ライトスタンドを見て、立ち尽くした。
満員のファンが、黒田の背番号「15」が書かれたボードを手にし、スタンドを真っ赤に染め上げていた。さらには、こんな特大横断幕が—。