2014.11.12

金本、新井、緒方から菊池、堂林、丸まで二流の男は、こうして一流を育て上げた内田順三 前広島二軍監督「さらばカープ、愛しき赤ヘルたち」

週刊現代 プロフィール

最初の1週間は当たっても、チップばかり。それでも目が慣れると、少しずつ前に飛ぶようになる。ボールをヒットするため、バットを最短距離で出すすべを体で自然に覚えるのです。2年後の'87年から2年連続首位打者。スイッチヒッターでの首位打者は正田がプロ野球史上初めてでした。決して器用ではなかった正田が、振って、振って技術をつかんで得た栄冠は、指導者として駆け出しだった私にも自信になりました。

崖を背にした男の意地

私の自宅も、ある時から練習場に変わりました。秋季キャンプを終え、12月から翌年の1月はどの球団も全体練習ができなかった。この間、若手を遊ばせてしまうとレギュラーとの差は縮まらない。そこで、自主練習を望む選手のために、新築した自宅の駐車場にネットを張り、若手が練習できる環境を整えました。ただ、朝早くから住宅街にボールを打つ音がカンカン響くので、近所迷惑になる。家内が菓子折りを持ってお詫びに回っていました。

その時、熱心に通って来たのが緒方(孝市)。カープの新監督です。当時はまだ一、二軍を行ったり来たりの選手でしたが、朝から昼までティー打撃をして、我が家で昼飯も食べ、午後はジムで筋力トレーニングです。後に聞いた話ですが、当時、緒方は母親を亡くして間もない頃で、何か心に期するものがあったようです。

緒方は本当に無口で、家内も「あんな口数の少ない、線の細い子がプロでやっていけるかしら」と心配していました。でもその後すぐに一軍に昇格して、翌年にはレギュラーに定着。家内の心配も、杞憂に終わりました。

我が家の即席練習場に通ってきた若手の中に、金本もいました。金本がまだ二軍の頃、広島は遠征費用を抑えるため、野手の何人かを残留させていました。留守番をさせられた金本は、よほど悔しかったのでしょう。私が冗談半分に「残留組は毎日1000回素振りをすべし」と言ったのを真に受け、毎日1000回素振りをしていたそうです。付き添ったコーチから聞いたので間違いありません。言いつけを守ったのは金本だけだったのではないかと思います。

その金本が阪神に移籍後、'03年に4番に座った新井貴浩にも、最初は苦労しました。金本不在が精神的に影響したのか、打撃不振に陥り、打率・236、19本塁打と成績がガクンと落ちました。当時26歳だった新井の将来性を見込んで辛抱強く起用した山本浩二監督は、新井と私を監督室に呼び、「オレも27歳からブレイクしたから」と励ましてくれました。

本拠地でのナイターの試合日は、真夏の灼熱の太陽が照りつけても、昼前から新井と特打を繰り返し、2年後の'05年に打率3割超え、本塁打王(43本)を取らせることができました。

一度は戦力外になりながら、はいあがったのが嶋重宣です。'95年に投手として入団し、'99年から野手に転向。しかし'03年までの5年間はレギュラーに定着できなかった。当時、彼は内角球を苦手にし、腰痛の持病も抱えていました。他のコーチたちは、先入観で「嶋はもう厳しい」と見ていました。

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