2015.01.07

唖然、呆然、戦慄、驚愕! 日本の裁判は本当に中世並みだった! 『ニッポンの裁判』著者・瀬木比呂志氏インタビュー 

『絶望の裁判所』は序章にすぎなかった・・・・・・
瀬木 比呂志 プロフィール

また、「こんなひどいことをしている」と指摘したところで、半沢シリーズの銀行みたいに簡単に非を認めたりはしません。『絶望の裁判所』に詳しく記し、『ニッポンの裁判』でも第7章、第8章で触れたとおりです。知らぬ存ぜぬで「静寂の嵐」のような沈黙を押し通すだけです。これでは、たとえ半沢氏が裁判官だったとしても、リベンジなどおよそ無理ですね。

小説の悪口を言うつもりは全くありませんが、半沢直樹の「倍返し」は、とってもわかりやすいが現実にはありえないファンタジーだということです。権力というのは、そんな甘いものではありません。それは、基本的には、どこの国でも、ことに大国ではいえることでしょう。ただ、司法やジャーナリズム、あるいは学者等の知識人がそれを厳しくチェックしている国と、日本のようにそうでない国とはあると思います。

「あとがき」にも書きましたが、現在の世界でシステムに対する有効、先鋭な批判を行っている人々のかなりの部分が一度はシステムの中枢に近い部分にいた人々であることには、理由があると思います。権力というものが、もはや、古典的な一枚岩の単純な存在ではなくなっているのです。的確な批判は、相当の情報をもっていないと、また、客観的な視点や構造的な理解を対象に対してもっていないと、できにくくなってきている。

「55年体制」を未だに引きずっているような古い現状認識では、現代の権力の問題を解き明かすことはできません。それは、僕の知っているすぐれた学者、法律家、ジャーナリスト等の一致した見解です。日本における左翼の著しい退潮には、そういう背景があると思います。特に政治、行政や司法に関心のない人々でも、無意識のうちに、そういうことはわかっているのだと思いますよ。

Q:竹﨑前最高裁長官等が敷いたといわれる思想統制と近年の司法の劣化はどの程度リンクしているとお考えですか?

瀬木:これは、『絶望の裁判所』に詳しく書き、『ニッポンの裁判』第7章でも裁判との関連からさらに掘り下げて分析したことですが、竹﨑前長官を含む刑事系トップの裁判官たち(もちろん、これに追随した民事系の人たちも相当いました)が行った思想統制や情実人事の傷跡は深いですね。

民事系の裁判官だと、たとえば権力志向、官僚的支配で有名な矢口洪一長官のような人でさえ、ある限度はわきまえるということがありました。たとえば、情実人事はまあまあの規模にとどめ、若手については従来どおりの能力主義を変えない、といったことです。日本の裁判所は閉じられた絶対主義的ヒエラルキーの、世界に珍しい裁判所組織ですから、そうした部分まで汚してしまうと、あっという間に腐敗してしまいます。ある意味、戦後長い間、裁判所が、保守の砦とはなっても決定的な腐敗まではしなかったということには、評価すべき点もあるのです。また、矢口長官も、彼なりのヴィジョンと実際の行動の乖離という人間的な問題を抱えていたという側面はあるでしょう。

しかし、2000年代の刑事系トップの人たち、そして、これに追随した民事系の人たちには、もはやそうしたものすらなくて、先のような方針を下まで貫徹してしまった。これは致命的です。僕が、2000年代の半ばすぎには、「もう転身するほかない。現在の状況は全体主義国家からの亡命待ちの知識人と変わらない」と決意したのは、そういう背景があってのことでした。

Q:『ニッポンの裁判』では、判例とともに裁判長の名前が挙げられていますね。判例雑誌ならいざ知らず、一般書ではこれまで例がないことでは? 裁判官たちは戦々恐々の状態になるのではないでしょうか?

『ニッポンの裁判』は、難解な判例を、法律の基礎知識のない一般読者でも理解できるように『複雑明快』に書いた力作。2015年を代表する新書の一冊となるだろう

瀬木:僕が、『ニッポンの裁判』で、具体的な検討を行った裁判および重要と思われる裁判については裁判長の氏名を記すことにしたのは、第3章以下の裁判分野別総合分析に先立って、第1章、第2章で論じたように、「価値」に関わる訴訟の裁判には、裁判官の総合的な人格が深く関係しているのを考慮してのことです。

それに、裁判官がその良心と憲法を含む法律に従って下すべきものとされ(日本国憲法76条3項)、「公文書中の公文書」ともいわれる裁判については、それらを分析、批判する場合に、その判断につき国民、市民に対して責任を負う者の氏名が記されることが、本来、適切でもあり、必要でもあると思います。

また、僕は、よい裁判はよいと分析し、まずまずの裁判はまずまずであると分析していて、客観的な評価に努めていますし、論理一貫性や法律の趣旨をも重視しています。また、僕が消極的な評価を行った判決についても、わずかではあるが、良識派として知られる裁判官(元学者を含む)が裁判長となっている例があることも事実です。僕自身、あらためて裁判の難しさを痛感させられました。

瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『絶望の裁判所』(講談社現代新書)、『リベラルアーツの学び方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、近刊)、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』、『民事訴訟実務・制度要論』(以上、日本評論社、最後のものは近刊)等多数の一般書・専門書のほか、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』、『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。