奥泉: つまり、貞明皇后が、神功皇后(仲哀天皇の妃、応神天皇の母。いわゆる三韓征伐をした伝説上の人物)と自分を重ね合わせて、極端に言えば天皇になり代わろうとしたわけですよね。読みながら僕は最初とても驚いたんだけど、その可能性は現実にあったんですね。
原: 貞明皇后は、大正11年(1922)に神功皇后を祀った福岡県の香椎宮まで行って、大正天皇の平癒を祈願しています。平伏の時間は20分近くにおよび、神功皇后の霊と自分が一体になることを祈願する歌まで詠んでいる。まるで「皇后霊」の授受を信じている感じです。折口の考えを一番忠実に継承しているのは、ほぼ同じ時代を生きた貞明皇后なのではないかという気もします。
奥泉: 大正末期に歴代天皇の系譜を確定するにあたって、神功皇后を天皇に列するかどうかが大問題だったことが、本書の冒頭に出てきます。今日の目から見ると、どちらでもいいような気がするけれど、当時は非常にアクチュアルな政治問題だったと。
原: 相当緊迫していたと思います。大正時代は、世界史的に見れば革命の時代です。ロシアをはじめ君主制がどんどん倒れて共和制に移行した。そういう状況で大正天皇の病が悪化していった。文字通り未曾有の危機でした。だから、山県有朋も原敬も政治的な立場を超えて、皇太子を摂政にすることで何とか事態を収めようとしたわけです。
しかし、翌年には貞明皇后が神功皇后以来とされる九州行啓を行い、その次の年には関東大震災が起こる。震災時に皇后は卓越したリーダーシップを発揮して、天皇に代わる政治主体として動いています。
宮中祭祀を重視する皇后にしてみれば、洋行帰りで女官制度の改革などに熱心な皇太子裕仁は怒りの的でした。祭祀を軽視するように見えたからです。
奥泉: 両者の葛藤はその後もずっと続いて、宮中のみならず、昭和初期の政治状況にも色濃く影を落としていることがよくわかりました。そういう視点から近代史の事件を読み直してみると、あらたな発見がありそうです。
原: 二・二六事件のあと広田弘毅内閣が成立したときに、皇太后節子が閣僚を一人ずつ大宮御所に呼び出したことがありました。閣僚たちはみんな感激して、泣く者までいた。西園寺公望などは、そうした皇太后の動きに警戒心を持っていて、とても心配しています。
資料としての和歌
奥泉: 先ほども言及されていましたが、今回の本では、とくに貞明皇后が詠んだ和歌に注目されていますよね。和歌が随所で引用されて、その解釈を通じて皇后の内面に大胆に踏み込んでいる。これは『皇后考』の大きな特色で、読みどころのひとつだと思いますが、同時に「歴史叙述とは何か」という根本的な問題にも関わります。
原: その点は、批判を受けるのは覚悟のうえで、突破するしかないと思いました。天皇制というテーマは、資料の制約が厳しくて、とくに天皇本人が書いた一次資料は基本的にないわけです。皇后の場合、ちょっとはあるんですが、それも例外的です。つまり、学者として安全なところで踏みとどまっていると、周辺ばかりグルグル回って、いつまでも本質が掴めないんです。
奥泉: なるほど、であればこそ和歌はとても貴重な資料でありうると。ただ、一般に歌を解釈することは非常に難しい。そのご苦労はいかがでしたか?
原: 貞明皇后の歌はそんなにうまくないんです。逆に言うと、相当ストレートでわかりやすい。ほとんどツイッターですね。ここまで明け透けに言っちゃっていいのか、というぐらい率直な歌が多いんです。初めて見たときは私も驚きました。
もちろんそういう歌の多くは、公式の御歌集には収録されていません。幸い貞明皇后の場合は、御歌集とは別に『貞明皇后御集』(国立国会図書館所蔵)が残されています。全三巻もあって、収録されている歌の数が多い。その時々の彼女の内面が手に取るようにわかります。さらに、この『御集』には、ある句の横にちょっと違う句が並記されていたりして、推敲した痕が残されているんです。御歌集では完全に出来上がった歌だけが並んでいますが、『御集』では彼女の思考の断片を垣間見ることができました。
敗戦間際の戦勝祈願の謎
奥泉: 僕は以前、『神器―軍艦「橿原」殺人事件』という小説を書きました。アジア太平洋戦争の戦況が悪化していく中で、神風が吹かないのは天皇のせいだと考える人たちが小説中に登場する。あの天皇はニセモノであって、本物は別にいる。そうでなければ、神風は必ず吹くはずだ、という発想です。もっと天皇がちゃんと祈らないからこうなるんだと。もちろんこれはフィクションですが、現実にもそう考える人が出てきてもよかったと思うんだけど、案外いないんですよね。