2015.03.28

維新・足立康史議員が、「大阪都構想」を批判する「現代ビジネス・藤井原稿」を国会で追及~~政治圧力と学問の自由について 

藤井 聡 プロフィール

「言論」に続き「学問」も政治的な封殺圧力?

いずれにしても、もしもこういう足立議員の様な振る舞いが国会議員の「当然の権利」として認められるなら、自身や自身の政党が政治的に不利益を被る学説を唱える学者がいれば、(その学者の学術的、専門的正当性の議論もそこそこに)その学者の学説を毎回国会で取り上げ、「この学者はデマを言っている。大臣、いかがか?」という答弁を毎回毎回繰り返すことが許容されることになります。

仮に大臣がそれに同意しなかったとしても、今回の足立氏の様に、「国会で、その学者の説がダメだしされた」と、事実と乖離する主張を喧伝したとすれば、その学者、学説は大きな「風評被害」を被り、政治的、社会的に封殺されていくことにも繋がります。

そもそも今回足立氏は、『デマであると思うが,いかがか』という形式で質疑を行い、しかもデマであることの理論的根拠を(「付録」に示した様に)明確には示していません。この「質疑の形式」そのものが極めて悪質であるということは、重ねて強調しておきたいと思います。その「質問の形式」とは、例えば次のようなものです。

例えば、ある国会議員が国会で、根拠を示すこともなく『A氏は嘘つきだと私は思うが、政府はどう思うか答えよ』と質問し、政府が『そのような個人の人格に関する問題について、お答えことはできません』と当たり前の答弁した場合であっても、『A氏は嘘つきだ』という発言だけが否定されずに永久に残ることになるわけです。

国会議員でないA氏にできるのは,名誉の毀損や業務の妨害に関する(たとえば本稿の様な)抗議を行うという程度の事で、それをやったとしても、それが「国会の議事録」であるが故に、その発言は永遠に消えないのです。しかも、A氏からの反論においても、そもそも「根拠も示さずに主張されたもの」に対しては、「反論」という行為そのものが構造的に成り立ちえないのです。

いわば、今回の足立質問の「質問の形式」そのものが、詭弁による印象操作のみならず、国会という国権の最高機関の権威までをも活用した言論と学問に対する「封殺圧力」をもたらす構造を有しているのです。

しかも、さらに言うなら万一にでも、大臣がその議員と同じ政党に属しており、「そうです。私も、デマであると考えます。」と答弁する様なことがあったとすれば、その学説は瞬く間に、学問的にではなく、政治的に、実際に、封殺される事になってしまいます。

つまり、この足立氏の振る舞いを許容することは、「政治の論理で、学問の論理を圧殺することを許容する」ことに直結するものと筆者は考えます。

関連記事