すなわち今や、大阪都構想を推進しようとする公的政治勢力は、単に言論人に対する「言論封殺」(例えば、こちらをご参照ください http://satoshi-fujii.com/pressure/)のみならず、「学問」それ自身に対しても、政治的な封殺圧力をかけるという疑義すら生まれ始めているのです。
私たちの自由社会は、「言論の自由」をコアとする「自由な会話や発言」と、「学問の自由」をコアとする「自由にあれこれと考える事」によってはじめて成立するものです。だから、こうした封殺圧力は、私たちの自由社会の在り方そのものに、深刻な影響を与えかねぬものなのであり、それは決して「大げさな指摘」でも何でもないと、筆者は真剣に考えています。
我が日本の自由社会が、未だ、公権力者の不当なる圧力を許さない真っ当な良識を携えた社会であることを祈念しつつ、本件についてのご判断を広く、日本の学者、言論人、政治家、そして良識有る日本国民の皆様に委ねたいと思います。
付録 「足立氏の指摘」の詭弁構造に関する解説
足立氏が喧伝する「都市局長ダメだし」説ですが、それは、局長のいくつかの発言に基づいています。しかし、足立氏が引用している局長答弁は、いずれも「ダメだし」とは到底解釈できません。
まず、足立氏が引用した一番目の局長答弁、「都心部に関する都市計画決定を道府県と政令市のいずれが行う場合であっても、都心部を含めた地域全体として望ましい都市の姿を描くことが都市計画を運用する上で重要である」ですが、これは、藤井説を論駁するものとは全く言えません。そもそも当方は、この局長が「重要である」と論じている事が、都構想が実現したら「実現出来なくなる疑義がある」と指摘しているに過ぎません。
万一この局長答弁が「ダメだし」であるなら、(何らかの状況の中で)「君にはその仕事は出来ない」とあなたが友人にアドヴァイスした時に、「その仕事が重要だ」と指摘する識者がいるだけで、あなたは「お粗末」だと「ダメだし」されてしまうことになります。そんな不条理な話があり得るはずがありません。これは遺憾ながら、理由らしきもの(ただし実際には理由ではないもの)を述べたうえで、局長が「お粗末」だと「ダメだしをした」という主張を結論的に述べる、という、いわゆる詭弁構造を有する言説であると考えられます。
次に足立氏は、「現行でも、政令市が都市計画決定をする際には、道府県への協議または意見聴取が行われておりまして、両者でよく調整、連携して行われている」のであり、「(関係者が)調整、連携し合って都市計画を決定するものであることに(政令市でも都制でも)変わりはない」という局長答弁を引用します。しかし、これもまた、どこをどう考えても、筆者の説を論駁するものではありません。
ここで局長が「変わらない」と指摘しているのは、「調整、連携し合って都市計画を決定するものであること」にしか過ぎません。当然の指摘です。しかし局長は、現在と都構想が実現した時点における「事務手続きの煩雑さ」がどれくらい変わるかについては、一切言及していないのです。
もしこれで「ダメだし」になるなら、「100人で合意を図るケースも2人で合意を図るケースも双方とも、合意を図るものに変わりはない」のだから、「両者の煩雑さは一緒だ」、という事になってしまいます。そんな不条理な話があり得るはずがなく、これもまた、先と同様に詭弁構造を有していると考えられます。