2015.06.14

旧日本軍の将兵たちはあの戦争をどう振り返ったか

7年の歳月をかけて戦争体験者の肉声を追った亀井宏氏に聞く

あふれ出てきた「兵士の証言」

――取材を始める前は太平洋戦争には関心がなかったんですか。

関心も知識もありませんでした。大阪新聞の社屋に行って、亀井さんと話をして、とりあえず引き受けたものの、帰りの電車のなかで自問したんです。大きなテーマなのでやりたい気持ちはあるけれど、関心も知識もない人間に果たして書けるものなのかと。これは自分の手に余ると思い至って、すぐに大阪新聞に引き返して一度断ったんです。そうしたら亀井さんにひどく怒られました。「大丈夫、君なら書ける」とまで言ってくれて、それで最終的に引き受けることにしたんです。

だから参考文献を読み込みながら取材しては原稿を書いてという、今思えば綱渡りみたいな仕事の仕方でした。真珠湾攻撃(1941年12月8日)から珊瑚海海戦(1942年5月8日)やミッドウェー海戦(同6月5〜6日)くらいまでを書いたと記憶しています。

―大阪新聞の連載のあと、改めて「丸」誌上でミッドウェー海戦の連載が始まるわけですね。

そうです。大阪新聞の記事の焼き直しではなく、また一から取材し直そうと思いました。そこで旧海軍の名簿を改めて取り寄せまして、関係者に片っ端から取材依頼の手紙を送りました。というのも、私は無名の物書きで肩書がないわけです。新聞記者なら「○○新聞のカメイです」と電話一本で取材依頼もできるんでしょうが、どこの馬の骨ともわからない人間がいきなり電話しても、まず受け付けてくれない。今みたいにパソコンなんかないから全部手書きです。返信をもらえるのが半分もなかったと記憶しています。

その内のほとんどが断りでしたが、やはりこの人は外せないというキーパーソンがいますから、そういう人には何通も何通もしつこく手紙を送り続けました。『ガダルカナル戦記』でも同様のやり方をしました。

1942年8月に始まった米軍によるガナルカナル島急襲。これを機に、日本軍は泥沼の消耗戦にひきずり込まれていく 〔PHOTO〕gettyimages

――ガダルカナル戦は、戦闘ではなく飢えや病気による死者が多いという悲惨な戦場でした。その点から話したがらない人も多かったのではないですか。

ガダルカナルに関しては1973年の秋ごろから取材を始めたのですが、このころになって聯隊史や中隊史といった記録が私家版で出始めた。つまり、生き残った人が自ら所属していた部隊について語り始めたんです。そんな時期に遭遇したというのも幸運でした。もちろん取材に消極的な人もいましたが、そうした人はむしろ例外で、積極的に協力してくださる方が多かったように思います。

インタビューの現場で私はほとんど言葉を発しません。インタビュー相手が1時間でも2時間でもずっと話し続けてくれるからです。なかには号泣しながら話してくれた人もいます。語っても語り尽くせない、そういうものを胸の奥底に沈めて戦後を生きてきた人たちなんですね。

例外としては、インタビューに応じてもらうのに約2年かかった人が2人います。1人は元大本営作戦参謀の瀬島龍三さん。ちょうど瀬島さんが主人公のモデルといわれた『不毛地帯』(山崎豊子著)が出たころで、それで神経質になっていたんだと思います。

あのころは伊藤忠商事の副会長になっていたかと思うんですが、秘書に頼み込んでようやく取材が実現しました。驚いたことに、会ってみるとじつに慇懃で、腰が低いんです。話す言葉もあらかじめシナリオが用意されていたかのようにすらすらと出てくる。何か瀬島さんの頭のなかにカセットテープが入っていて、それを再生しているんじゃないかと思えるインタビューでした。

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