ミステリーの向こうにあった驚くべき現象
このシステムについていま概略を述べるならば、それは私たちの心臓が、生涯にわたって休まずに活動を続けるために必須のものである。
過酷な重労働を強いられる心臓は、必然的に多くのエネルギーを消費する一方で、エネルギーとともに産生される活性酸素という猛毒を浴びつづけている。それは心臓にとっては致命的なダメージとなるはずだが、実際には心臓が活動を停止することがないのは、心臓自身にみずからを癒す能力が備わっているからである。
心臓にそうした能力があることは、すでに知られていた。いわば「あたりまえ」の知見であった。
ところが、ことはそう簡単ではなかった。
じつはその能力を発揮するには、心臓は根本的な問題を抱えていた。癒されることなく、死に至ってもおかしくない「つくり」になっていたのである。にもかかわらず、実際には私たちの心臓は死ぬことなく、拍動を刻みつづけている。
これは大きなミステリーといえる。しかし不思議なことに、この謎に正面から取り組んだ研究はこれまでなかったのである。
なぜ心臓は死なないでいられるのか? 筆者らの研究グループはその答えを追ってみた。最初はふとした好奇心からであったが、やがてわれわれは驚くべき現象に遭遇した。それは、心臓にこれまで知られていなかったシステムが存在していることを示していた。
そして、このシステムを軸に見つめなおすと、心臓はこれまでの描像を覆す姿を現し、再定義されるのである。

虚血性心疾患の治療戦略が変わる
生物の心臓には、太古からの進化の過程でいつしか、こうしたシステムが宿されていた。しかし、その存在は誰にも気づかれることがなかった。筆者がそれを見いだすことができたのはいくつもの幸運に恵まれたからにほかならないのだが、なぜ自分であったのかと考えたとき、うれしさよりもむしろ、何か大きな存在に導かれているような敬虔な思いが湧いてくる。
このシステムは今後、創薬において新たなターゲットとなるばかりか、心筋梗塞に代表される虚血性心疾患への治療戦略にも、新たな選択肢を加える可能性がある。その作用は心臓のエネルギー代謝・ポンプ機能・酸素消費など、多岐にわたる活動を精巧にコントロールしていることが明らかになったからである。
本書によって読者に、心臓についての認識を新たにしていただき、生体というものの不思議さ・複雑さ・巧妙さについて知っていただければ、執筆の目的は果たされたと考えたい。
なお、心臓にかかわる生理学的現象はきわめて複雑であり、あまり細かいレベルの話をすると全体像を見失いかねない。そのため、まだ確定してはいない事柄も、あえて断定的に記述した箇所もあることをご容赦いただきたい。
一九六二年東京生まれ。千葉大学医学部卒業。筑波大学大学院医学研究科修了。医師、医学博士。Vanderbilt University Medical Center Research Fellow(米国)、日本学術振興会特別研究員、理化学研究所脳科学総合研究センター研究員、高知大学医学部准教授を経て、現在、日本医科大学生体統御科学分野大学院教授。二〇〇九年、心筋細胞みずからがアセチルコリンを産生する非神経性心筋コリン作働系(NNCCS)を発見。二〇一三年、NNCCS機能亢進マウスによる心筋虚血耐性機構を動物モデルで報告し、現在このモデルを使って、心臓から脳にはたらきかける制御機構について研究を行っている。二〇一〇年、Ed Yellin Award受賞。

柿沼由彦=著
発行年月日: 2015/08/20
ページ数: 224
シリーズ通巻番号: B1929
定価:本体 900円(税別)
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