それでもあの五輪エンブレムは”パクリ”ではない!
〜そもそもデザインとは何か?

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「似ている=パクリ」なのか?

ついに"幻の五輪エンブレム"となってしまった。五輪史上かなりレアなケースではないだろうか。

私個人は撤回に賛成ではない。なぜなら撤回の合理的な理由が見当たらないからだ。しかし、世の中に愛されてこそのシンボルマークであるという主張は、「表現とは伝わってなんぼ」の観点から理解できる。社会のリアクションが"こう"であればそれも正しいのかもしれない。佐野研二郎氏とそのご家族、関係者に対する「誹謗中傷」が、一刻も早くやむことを願う。

しかし、エンブレムの原案ならびに最終案は果たして本当に盗用だったのだろうか?  今回の騒動は、ベルギーのデザイナーによるネット上の告発が発端となり、話題は「似ている=パクリ」の検証に終始した印象がある。

だが、デザインの視点から見た検証は一般メディアにおいてあまりなされていない。佐野氏自身による生の言葉がもっと聞きたいところだが、9月4日現在その予定はないということであり、ここでは私見を述べたい。

まず騒動を簡単に振り返りたい。トートバックの疑惑が出る少し前、本件に関して私は以下のような記事を「現代ビジネス」に寄稿させていただいた(8月6日)。エンブレム最終案はパクリではないという検証を行う趣旨の記事だ。

「五輪エンブレム、盗用疑惑にかき消されたデザインの真意」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44577

その後、デザイナーの佐野研二郎氏と彼が主宰するデザインオフィス「MR_DESIGN」がこれまでに手がけた複数の仕事において、「盗用なのでは?」とする新たな疑義が連日のように持ち上がることとなった。

疑いが出るたびに筆者も逐一検証は行ってはいたのだが、ストーリーの展開が早すぎて私の処理能力を超え、新たな記事を公にすることができなかった。慚愧の念にたえない。

前回も書いたように、この件に関する世間全般とデザインの実作業に関わる人たちとの受け止め方では、けっこうな温度差もあるようだ。世の中には「似ている=パクリ=悪」の空気が充満している。ケースによっては、佐野氏をまるで"犯罪者"であるかのように報じたものもある。

もちろん筆者も「似たものがある=良いこと」と考えているわけではない。見た目も"オリジナル"であれば、それは素晴らしいことだろう。しかし、不幸にしてデザインが「見た目似てしまう」ケースは、世界規模で考えたときには、ビジュアルがシンプルなものであればあるほどよくある話である。

そういった"現場のリアリティ"を知っているためか、何名かのデザイナー、アートディレクターが佐野氏を擁護する発言をし、人によってはネット上でバッシングを浴びた。「デザインという業界、デザイナーという人種そのものが信用ならない」という意見さえ多く目にするようになった。

本件とまるで関係のないデザイナーにとってははた迷惑な話でしかないが、グラフィックを中心にデザインやクリエイティブの産業全体が岐路に立たされているとも思える。影響はすでに出始めている。

デザイナーだけでなく、映像クリエイターやプランナー、プロデューサーほかの方々でも、まったく何かを盗用した自覚がないにも関わらず、「自分の仕事が何かに似ていると唐突に指摘され、佐野氏のように世間から糾弾されるのではないか」と内心ビクビクしているクリエイターもいるかもしれない。

世間的に目立つ仕事やプロジェクトに携われば、また同じようなことが起こるかもしれない。私も含め別の仕事をしている方々にもそれは当てはまる。その意味でこれは他人事ではない。

それにしても、なぜ、こんなことになってしまったのだろう?

筆者自身はデザイナーではなく、デザイン界を代表するような立場の人間でもないが、編集者として15年、主にデザインや広告の表現、メディア論などの界隈で取材や執筆活動をしてきた。騒動が起こる少し前に、佐野氏へのロングインタビューも行っている。

本稿は「デザインに対するこの誤解、世間との温度差がどこから生じているのか?」を私なりに整理する趣旨のものだ。そのことで「(グラフィック)デザインとは何か?」を捉え直し、この時期にあえてその社会的意義を考えてみたい。あのエンブレムを無駄死にさせたくない気持ちも少しある。デザインというテーマにフォーカスを当てながらも、そこから現代社会全般に通じる問題も考察してみたい。

複雑な問題の性質上、少し長い記事になってしまうことをご容赦いただきたい。デザイン業界以外の方々にもできるだけわかりやすく書くことを心がける。前半では騒動を概括し、後半は少し引いた目線から「デザインと社会」についても考えてみる。

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