なんだって? 現代人には「足腰」がない!?
〜武術家・光岡英稔が知る身体観
独占・最強インタビュー(2)

−−生活に溶け込んでいる無意識の型もないということですか?
無意識だと型になりません。
たとえば、前回紹介した喧嘩屋のジェームズはウクレレがすごくうまいのです。しかも彼は左利きだから逆さにウクレレをもって器用に弾く。あまりにうまいから「教えてくれない」と言ったら、「オッケー」と言ってしばらく弾いて、「こう、こんな感じで!」と言って終わりです。
「いや、だから弾き方を教えてよ」と言うと、また「Ok, Alright」と言って弾いて見せて「Yah, You play it kinda like this!(こうだよ、こう弾くんだよ!)」でおしまい。
泳ぎも得意だから、「教えて」といったら、また「Alright, like this! (オッケー、こんな感じで!)」で泳いでみせて「You go like this!(こう、こうするんだ!)」で終わり(笑)。
ウクレレも泳ぎもどうやって覚えたのかと尋ねたら、「小さい頃からできる人を見て覚えた」というんですね。型がないとは、こういうことです。彼らにとっては文化は生活そのものだから、客観性がありません。客体的に共有できる型としての技術体系は必要ないのです。
−−なるほど。生活の中から技術を取り出して他人に伝える必要性がないんですね。
そこに住んでいれば自然と覚えるものでしかないので、わざわざ教え方を作り出す必要がない。彼らと違って、私たちはついテクニックを覚えようとしてしまう。そうではなくて、ハワイアンにとっては、ウクレレも泳ぎも生活文化の断面でしかないのです。
彼らに型があるとしたら、ハワイ語という型と身振り手振りがそうでしょう。とくにフラは祖先がタヒチからハワイまでいかにしてやってきたかを踊りで代々伝えています。そこには型らしきものがあります。
−−無文字社会だったことも関係しているかもしれませんね。文字によって情報量が爆発的に増えると、互いに確認しあわないといけないことも増します。その結果、生活文化から技を取り出して習う必要も生まれたと思います。
異文化を習うには、取り出して示してみせることが不可欠です。
たとえば、ハワイ語をしゃべれるようになりたいわけではないけれど、ハワイ語の文法の仕組みを研究する人がいても、私たちはさほどおかしくは感じないでしょう。しかし、ハワイアンにとっては理解できない。しかも、しゃべりたくない相手にわざわざ教えなくてはならないとしたら、ますます意味がわからない。
−−私たちは見て学ぶことが不得手になっていて、仕組みを汲み取る鋳型を形成しないと学べない体になっています。
ウクレレを見て覚えることを普通に感じる人がいる。一方で、それが普通に思えない人がいるならば、共有できる「普通」をまずつくらないといけない。ジェームズのようにやってみせて「こう!」では伝わらない。
確かに現代は、そういうフィーリングでは伝わらなくなっています。結果として弾ける、泳げることはわかっていても、どうすればそうなるのか知りたい。ならば、伝える側が仕組みを紐解いていかないと、伝えていけないわけです。私ができるからそれでオッケーなら、型は必要ありません。