とはいえ、文化人の中で反対意見が起こったのも事実です。たとえば「民主主義」や「社会」と造語で置き換えるのではなく、デモクラシー、ソサエチーとそのままカタカナ表記にしようとした一派もいました。
−−カタカナ表記にすると意味の説明まで含んで教育しないといけない。造語のほうが手間がかかりません。
その利便さが物事をわからなくしたのです。明治の知識人はフランス語の“corps”を「身体」と訳しました。もとのフランス語源のルーツであるラテン語の“corpus”には軍隊や死体という意味もあります。身体と軍隊がなぜルーツにおいては同じつづりの言葉なのか。
あるいは英語の“flesh”を「肉体」と翻訳しました。これには肉、肉塊という意味もあります。身体にして軍隊、肉体にして肉塊。なぜそうなのかは文明観を理解しないとわかりません。
つまり、この発想の根底にはキリスト教があります。聖書によると人間の体は泥からできた取るに足らないものです。それを崇高な精神がコントロールして初めて意味をもつのです。
精神が崇高なのは、神から与えられたものだから。これが西洋の身体感覚の根本にあります。
「精神」はどこにありますか?
−−精神という語も明治期につくられました。非常に馴染みのある言葉であっても、西洋の身体感覚を踏まえて使ってはいません。
ある能楽師に、「精神が大事だのはいうまでもありませんが、やはり肉体を鍛えないと能はできないでしょうか?」と尋ねられたことがあります。でも、そもそも世阿弥は、「精神」も「肉体」も知らない時代に生きた人です。明治以降の新たな言葉とその定義ができたことで物事がわからなくなっているひとつの証ですね。
−−唯一の神がいてこその精神なり身体である。これが西欧文明の考えとして、それを輸入した日本には唯一神はなく、八百万の神々がいました。当然混乱が起きます。
たしかに、アメリカ人に「スピリット(精神)はどこからやってくるか」と質問したら、誰しも「神」と即座に答えるでしょう。日本人に「精神はどこからくる?」と聞いたら、考えあぐねるんじゃないでしょうか。
精神がどこにあるかわからないにもかかわらず、「精神を統一しろ、錬磨しろ」「精神修養が大事だ」と言われる。肝心の精神が何かわからないまま、精神を口にしている。こういうことが明治から改善されないまま続いています。
精神の「統一」も「修養」も教会で行うものです。ようは精神は唯一神と通信するための媒介です。コミュニケーションするために必要なもの。これが一神教の考えです。しかし、日本はアニミズムですから、唯一の神との教会での対話が成り立たない。精神(Spiritus)の持って行き場がないのです。
日本における精神の理解は、「精神主義」とか「精神を鍛える」といった表現に感じるような、「何だかよくわからないけれどがんばらないといけないそれ」といった程度ではないでしょうか。そもそも精神は錬磨したり鍛えたりできないものなのです。