2015.11.29

【特別公開】実力派作家・長浦京が死の淵を彷徨った末にえぐり出したの渾身の時代小説『赤刃』

いきなり「小説現代長編新人賞」受賞!
長浦 京

赤刃─外伝─

死神はやはりいるのかもしれない。

脇坂は夜道を馬で駆けながら思った。今、自分が仕えている小留間逸次郎様こそ、死を司る者としての宿星を天から与えられた方ではないかと。

無数の辻斬りや大名嫡男の略取で江戸に騒乱を巻き起こしている赤迫雅峰一派を殲滅するため、幕府は逸次郎様に掃討使の御役を与えた。その逸次郎様の手足となって働く者として、脇坂たち腕に覚えのある浪人が口入れ屋を通して集められ、選ばれ、銭で雇われた。

はじめて会ったときの、恐れとも驚きともつかない感触をはっきりと覚えている。

「腕前を試したい」と脇坂は木刀を渡され、打ち合うでもなくただ二人向き合った。その自分より十は年下の青年の目は、信じられないほど無垢に澄んでいた。春の清流のような透明さとは違う。どこまでも深く暗い井戸のような、濁りなく一色に染められた深遠。何の邪念も、信念もなく、だからこそ善にも悪にも大きく転びかねない。いや、そもそも善悪や聖邪の区別などを越えているような、透き通った空漠がそこにはあった。

脇坂はその目に魅入られた。

豪商や旗本子息の警護役として、脇坂の名は江戸や尾張で広く知られている。何度もの生死のかかったやり取りを経験し、破格の代料が払われる此度の仕事がどれだけ危ういかもわかっている。そんな手練の男に損得を忘れさせたのは、若き雇い主の存在そのものだった。近くで働き、深遠の果てにあるものを確かめたい。その思いだけが脇坂を突き動かした。

そしてようやく少し分かりはじめてきた。あれは近づく者たちを死へと誘う空漠なのだと─

蹄の音が夜の町に響き、冬の風が吹きつける。
一刻前、脇坂たち馬廻り組四人は、逸次郎様、その従者鎌平とともに高輪にある旧大乗寺の山門跡をくぐった。
赤迫一派が無知な若い武士を使い伝言してきた挑発に乗り、あえて火中に入った。

結果、逸次郎様が赤迫一派の一人、藤堂卯之助を討ち取り、赤迫らを匿っている武家の名も掴んだ。行方知れずとなっていた掃討使、玉利鉄太郎の身柄も遺体ではあるが取り戻した。だが、病みついた無数の狂犬どもの強襲に遭い、深手を負った逸次郎様は今、医者の元へ向かっている。

赤迫一派に加担した武家の名を託された脇坂と、同じ馬廻り組の松井恒昌は、二手に分かれ、江戸市中の違う道を、それぞれに幕府老中首座松平伊豆守信綱様の屋敷へと急いでいた。どちらか一方が襲われ討たれても、その間にもう一方が屋敷までたどり着ける。

赤迫一派は二人を同時に襲いはしない。そんなつまらないことはしない連中だ。慌てず急がず、こちらの一人ひとりと斬り合い殺し合うことを楽しんでいる。

脇坂の馬は一石橋を渡ってゆく。

このまま逃げようと思えば逃げられる。卑怯者の汚名を一生負うことになるが、手に入れた代料で細々と暮らしてはゆける。しかし、逃げたくはなかった。責務とは違う何かが、自分の背を押している。ただし、死にたくはない。こんな仕事で死ぬ気はさらさらない。なのに、この任を全うするには命をかけることも厭わないと感じている。

散り散りで、相反する心。自分は少し頭がおかしくなってしまったのだと脇坂は思った。逸次郎様のあの目の奥の深遠に囚われてしまったのかもしれない。

月にかかっていた雲が流され、行く先の道がほんのりと明るくなった。

右手の奥、木屋町の辻番屋から明かりが漏れているのが見える。左奥には常盤橋が闇のなかにぼんやりと浮かんでいる。脇坂の馬が辻番屋の前にさしかかると、開いた戸口に行灯に照らされた人の姿が浮かんだ。誰か出てくる。

出てきた姿は右手に大薙刀を握り、道を遮るように両手を広げた。脇坂は馬を反転させようとしたが遅かった。男は早くも馬の尾の近くに迫っている。

「背後を突かれ、あっさり死にたいか」大薙刀の男はいった。

脇坂は下馬し、手綱を濠沿いに並ぶ葉の落ちた低い木の一本にくくった。

辻番屋から漏れる光が男を照らす。細面で張り出した顎、削り取られたように穴だけがある右耳。鎖帷子に鎖の手袋。腰に佩楯、脛に脛当て。戦いに臨む装束だった。

「梅壺主税だな」脇坂はいった。「待っていたぞ」梅壺はいった。

脇坂はこの男の顔と行状を「凶人帳」という手配書で見ている。

梅壺は元米沢藩士。刀の達人であり博学者であり、藩きっての切れ者でもあったという。だが、頭が切れ過ぎておかしくなった。足利室町幕府のころ、阿弥陀如来を戴き万人平等の国を一時だが実現した、加賀一向宗の惣国。この研究に異常なほど没頭し、藩を欺きながら同志を募り、なんと藩内山間部にごく小規模ではあるが惣国を作り出した。近隣の寺や神社とは不可侵の密約を結び、「年貢労役なき国」「餓える者のいない国」と呼ばれ、藩による成敗の兵も二度三度と撃退した。しかし、二年半で国は自壊した。

国を導く者たちが信念の違いで衝突し、醜く争うようになった。梅壺も「阿弥陀如来を貶め辱めた」として牢に捕らえられ、生爪を剥がれたり、片耳を削がれたりした。しかし、藩による再度の成敗に乗じて、同志五人を殺し、どうにか逃げ延びると、今度は血と罪にまみれた理想郷を作りはじめた。

盗賊となり手下を率い、出羽、陸奥、越後を巡りながら、相手の身分にかかわらず斬り捨て、銭物を奪い、それらを売りさばく組織を作った。容易に人の近づけぬ出羽の山奥に豪奢な居を構え、悠々と暮らしていたという。

そんな悪鬼のような年寄りを、赤迫は山奥から連れ出し、江戸の町に放った─

辻番屋の奥、梅壺に斬られ、首を折られた番役三人が土間に転がっていた。流れ出た血が行灯の光を浴び、溶けた鉛のように黒く鈍く光っている。

「おれでなくともよいだろう」脇坂はいった。

「だめだ。逸次郎は藤堂卯之助に譲ったが、代わりに貴殿とやり合う機会を得たのだ。先の短い年寄りから楽しみを奪うな」

梅壺は大薙刀を構えた。脇坂も刀を抜いた。

双方見合った。冷えた風が木々の枝と濠の水面を揺らす。脇坂が踏み込む。左から大薙刀が迫る。脇坂はたんと跳ねた。

高く浮き上がった脇坂の足下を、大薙刀が過ぎる。すかさず梅壺の手元へと刀を振るおうとした。が、素早く返した梅壺の大薙刀が右から迫った。脇坂は振れずにうしろへと飛んだ。

またも双方見合った。梅壺の大薙刀が斜め下から波打つように迫ってくる。脇坂は避けたが、刃先が脇坂の足や胴をかすめ、赤く細い傷が走る。

絶え間なく大薙刀が迫り、木々の並ぶ濠端へ追いやられた脇坂はひときわ高く飛んだ。

飛びながら脇坂は頭上に張り出た横枝を左手で掴み、ぶら下がると梅壺の顎を蹴り上げた。きしむ横枝、のけ反る梅壺。晒された喉元めがけ、脇坂が右手の刀を振り下ろした。

じゃりんと砂をすり潰すような音が響く。梅壺は刀を鎖手袋をつけた右手で受け止めると、強く握ったまま「えい」の怒声とともに強くひねった。

きんと鳴り、砕けた刃が地面に落ちてゆく。脇坂の左手が掴んでいた横枝も折れ、体が地面に叩きつけられた。口の中に土の味を感じ、切れた唇から血が滴る。

刃先を折った梅壺の鎖手袋の右手からも細く血が流れている。

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