2016.01.23

鶴翼の陣はまぼろしだった!? 戦国軍事史の意外な「新事実」

関ヶ原合戦図絵巻(一部)

文/乃至政彦(戦国史研究家)

日本の歴史が死ぬ時

わたしはいつもクリエイターに捧げるつもりで、歴史研究に取り組んでいる。

ここでいうクリエイターとは、歴史産業に携わる小説家・ライター・漫画家・映像作家にかぎらない。営利を目的としない歴史学者からアマチュアの研究者、インターネットではブログ運営者・ツイッターの歴史クラスタ・ウィキペディア編集者も視野に入れている。歴史に関わる情報発信者ほぼすべてを対象と考えているのである。

なぜわたしはかれらを意識するのか。

歴史は教科書に書かれた公的文献だけで作られるわけではない。共同体の内部においてなされる「語り合い」に拠ってなりたっている。

現在、「語り合い」のタネを提供するのはクリエイターの仕事になっている。文献だけがあっても「語り合い」が失われると、歴史と文化は死んでしまう。もし将来、今でいう日本人がすべて滅び、いなくなったとしても、この地に棲まう異星人やロボットたちが、我がことのように「川中島合戦」や「明治維新」を熱く語り合っていれば、「日本の歴史と文化は生きている」といえるだろう。

だが、もし我々が永遠の命を得たとして、そのとき合理性を名目に、公用語を英語に改めたり、デジタルデータへの移行保存が完成したからと史跡を病院に建て替えたり、もう使わないからとすべての遺品を換金して国庫にまわしたりすれば、たとえどれだけ立派な歴史教科書があったとしても、日本の歴史はそこまでである。

そのとき、この列島は文化的な空白地と化す。

思いもよらぬ「空白地」

歴史に思いを巡らせる人はしばしば「歴史とは何か」を自問するが、おそらく本質のひとつはここにあるだろう。

中世の日本人は空き家を、「天魔の住処」になるとして忌み嫌った。空き地はただの空き地に終わらない。天魔が棲むとされたのである。中東では武装勢力が空白地を占拠して周囲を脅かしている。日本でも空き家に棲み着く不審者が近隣住民を怯えさせることがある。これを中世日本人は天魔と呼んだ。

歴史ある地の国民は、自分たちの国土を文化的空白地にさせない努力をもって、絶えず天魔の侵入を抑止する責任があるのだ。

先行研究のない領域に足を踏み入れると、その天魔に遭遇することがある。

今回の『戦国の陣形』(講談社現代新書)もそうだった。

大河ドラマ『真田丸』の正式決定などで戦国軍事史が盛り上がるなか、戦国時代の陣形を調べてみようと思ったとき、まず先行研究がないことに驚かされた。本当の空白地だったのである。