2016.02.12
# 雑誌

前田智徳ロングインタビュー
「あなたがいたから、プロで24年やれました」

元広島スカウト宮川孝雄氏に捧ぐ
週刊現代 プロフィール

僕は高校時代に計3度、甲子園に出場しましたが、目立った活躍はできませんでした。同期には上宮高の(元木)大介(元巨人)がいて、彼の存在が際立っていた。

それでも、夏の甲子園が終わってから広島以外の11球団も僕に挨拶してくださるようになり、特にダイエー(当時)は、広島よりひとつ上の3位での指名を早い段階で明言してくれました。地元・九州の球団ですし、仮にプロで結果を残せなくても、すぐに帰れるーーそう思い、おのずとダイエーが第1希望になっていました。

しかし、11月のドラフト当日、異変が起きました。ダイエーからは指名がなく、広島から4位指名。今振りかえれば、ドラフト当日に変更になることは当然、起きうる事態ですが、当時の僕はまだ高校生です。

「(ダイエーに)騙された」と思って、現実をなかなか受け入れられなかった。落ち込んだ僕は下宿先の4畳半にこもり、登校拒否になってしまった。誰とも会いたくなかったのです。気持ちは、社会人で野球を続けることに傾いていました。

「とにかく振れ」

ドラフトから数日後、指名挨拶で宮川さんと会ったときに、こう言われました。

「ウチは4位で指名すると言って実際に指名した。約束を守ったよな。でもダイエーは3位で行く、と言っても、約束を守らんかった」

その言葉を聞いた直後も、社会人に進む僕の決意は変わりませんでしたが、その後も宮川さんは、押しの強い説得を続けてきます。次第に「僕が(入団を)拒否することによって、高校の先輩方の顔に泥を塗ることはできないし、後輩がプロに入れなくなるのも困る」と、考えるようになりました。

両親とも相談しました。

僕が熊本工で3年間野球を続けるために、県内の自宅からは通えないので、両親が熊本市内の下宿代を出してくれ、経済的な負担もかけていました。プロに入れば、両親を少し楽にできるかもしれない。広島への返答期限当日まで迷いに迷い、その日の夜12時に、当時の高校の野球部長の先生を通し、「お世話になります」と返事をしました。入団の報告をしたのは、同期入団8人の中で最後だったそうです。

こんな具合で、入団まで僕の心の中は葛藤の連続でしたが、「プロで勝負する」と決めてからは、宮川さんの話を素直に受け入れました。1年目のキャンプは二軍スタートでしたが、宿舎にこられた宮川さんからこう言われたのです。

「お前は、握ったバットが手から離れなくなるくらい、バットを振らないと一人前になれん。フォームがああだ、こうだと屁理屈を言うよりも振っていかないと駄目だ」と。

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