2016.06.09
# エンタメ

ハリウッドで「スーパーヒーロー映画」が量産される理由〜そして、ヒーローたちは「正義」について悩み始めた

寺田 悠馬 プロフィール

「正義」について悩むヒーローたち

そんなシニカルな姿勢を拭えない筆者は、現在公開中の『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』を、素直な気持ちで迎えることができなかった。

同作では、正義の味方同士(キャプテン・アメリカとアイアンマン)が戦う「内戦」(英語で「シビル・ウォー」)が描かれることが、予告篇で明らかにされた。最新作はつまり、「キャプテン・アメリカVSアイアンマン」ということになり、奇しくも、一足先に公開されたDCコミックスの『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』と酷似した、ヒーロー同士の衝突という構図が容易に想像できた。

映画の「単一化」を促すスーパーヒーローというジャンルの、さらにその中でも、似通った作品が2本、同時期に製作されたということになる。シリーズ化が進むにつれて、新しい悪役のアイディアが枯渇して、ついにヒーロー同士を戦わせるしか策がなくなったのだろうか?

救い難いほどにささくれ立った、そんな心持ちで、筆者は『シビル・ウォー〜』を観に行った。

だがその結果、近年記憶にないほどの興奮を覚えて、そして、『〜ウルトロン』以降懐疑的になっていたスーパーヒーロー映画の将来について、新たな希望を抱いて、映画館から出てくることができたのだ。

予告編からもわかるように、『シビル・ウォー〜』の内戦は、スーパーヒーロー集団であるアベンジャーズを、国連の監視下に置くべきか否かという論争に端を発する。

これまで何度も世界を救ったアベンジャーズだが、彼らが戦うたびに、多くの民間人が巻き込まれ、命を落としてきた。果たして「正義の味方」の戦いは、その代償さえも正当化するものなのか? そしてその問いに対する答えは、アベンジャーズ自身の独断に委ね続けて良いのか?

国連による規制に賛同するアイアンマンと、独立性の維持を主張するキャプテン・アメリカ、それぞれが率いる二党に分裂したヒーローたちは、やがて内紛へと突入していくのだ。

スーパーヒーローという存在が生来的に内包する問題、つまり、「圧倒的なパワー」を持つ者が、同時に「善悪の判断」を下すという状況の危険性に、真正面から挑む展開に、筆者は冒頭からぐんぐんと引き込まれた。

政治哲学における古典的な論争である、カント的なリベラリズムと、マキアベリ的なリアリズムの衝突をも想起させる、いわゆる「スーパーヒーロー問題」は、申し分ない観応えを与えてくれた。

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