
作家・片岡義男さんと江國香織さんに、佐々木敦さん(批評家)が聞く「創作のヒミツ」。後編では、"日本語の特性"をめぐる実作者ならではのお話をたっぷりどうぞ。
*前編「小説ってこんなふうに書くのか!」はこちら(gendai.ismedia.jp/articles/-/49143)
翻訳の難しさと楽しさ
佐々木:お二人とも翻訳を手がけられていますが、翻訳あるいは日本語を書く上で、英語という異なる言語との関係についてはどうお考えでしょうか。
片岡:翻訳は大変です。随分しましたけど、してはいけない翻訳もあった。
佐々木:してはいけない翻訳って何ですか?
片岡:『ビートルズ詩集』です。「聞けばわかるじゃないか」と反対したんですけどね。「これができるのは君しかいない」と言われて。そう言われたらやる以外ない。

でも翻訳は大変ですよ、真面目な話。読めばわかりますけど、わかった上でそれを日本語に置き換えていくわけですから。置き換えるのか創作するのか、その微妙な中間ですね。置き換えだけでいいときもあるし、ほとんど創作に近い場合もある。
佐々木:そうしないと日本語にならない。
片岡:ならないですね。まず、どこがどう面白いのかを間違えてはいけない。短編は特にそうです。
現代の短編なら何となくわかりますが、50年前のものだとわからないですよ。しかも50年前の書き方ですから、のどかなんですね。最初から構造がバレている。だけど読者は今の日本語で読むわけですから、今の話であると同時に、50年前の感覚をどこかで出さなければいけないから大変です。
佐々木:江國さんは昨年、トレヴェニアンの『パールストリートのクレイジー女たち』の翻訳をなさっていますね。僕は書評を書かせていただきました。
江國:ありがとうございます。私は絵本の翻訳はするんですけど、長いものはほとんどしたことがなかった。それが原書を人から頂いて読んだら、あまりにも素晴らしかったので、「どうしてもやりたい」と言って訳したんです。でもやはり、ものすごく大変でした。1930~40年代の話なので。
佐々木:アメリカのスパイ小説作家の自伝で、一種の少年小説ですね。
江國:そうです。とても大変でしたが、でも楽しかった。私は翻訳するのが好きなんですね。小説を書くときは先を考えなければいけないけど、翻訳は考えなくてもいい。「これをどう日本語にするか」ということに集中できるので。
片岡:僕はね、先があると嫌なんです。原書が横に置いてあるじゃないですか。こんなものが既にここにある、これをどうすればいいんだ?
江國:そうか。
片岡:翻訳すればいいんですよ。
佐々木:ははは。そういう翻訳という作業と、ご自分で小説を書くということの違いは何でしょうか。
片岡:僕の場合は、自分で小説を書いた方が気楽でいいですね。自分だけの責任ですから。翻訳はそうはいかない。原作者に対する責任があるから。