三千子が美人であったことは、三千子自身が「ある新聞が京都へ移転した旧女官たちをつぎつぎと、昔の写真とともに紹介しまして、私のときには、今は病気で静養しているが一番若くて美しいなどと、とんでもないことを書いたものです」(301頁)と述べている。
ある子爵の息子から求婚されたこともさりげなく披瀝している(310~311頁)。大正天皇に気に入られたのもむべなるかなである。
貞明皇后への「違和感」
三千子は、女官に採用されるさい、「別の日に出られた烏丸(からすまる)花子さんが、東宮さまの方へゆかれることになったのだそうでございます」(17頁)と述べている。
つまり三千子は皇后宮職の女官になったのに対して、花子は東宮職の女官となったわけだ。この違いが二人の運命を分けた。花子もまた大正天皇お気に入りの女官になるが、1917(大正6)年に退官している。
それを伝える記事が、同年12月29日付の『時事新報』に掲載された。この記事を見た作家の徳冨蘆花は、「初花の内侍(烏丸花子のこと:引用者注)が宮中を出た、と新聞にある。お妾の一人なんめり」と日記に書いている(『蘆花日記』6、筑摩書房、1986年)。
花子は大正天皇の「お妾の一人」であり、天皇との間に性的な関係があったと推察しているのだ。これがもし事実ならば、二人の運命の違いはまことに大きかったと言わねばなるまい。
三千子は、大正天皇に対してだけでなく、貞明皇后に対してもあまりいい評価をしていない。
最初に違和感を抱いたのは、明治から大正になり、烏丸花子も一員だった元東宮職の女官たちとたびたび会うようになったときであった。
「何かと全体の風習が違うらしく、皇后宮様のピアノにあわせてダンスなどしていられたとか聞くとおり、皆なよなよとしたいわゆる様子のいい方ばかり、それに引きかえこちらは力仕事などもする実行型といった人が多く、ちょっとそりのあわないような感じを初めから受けました」(223頁)
これもまた痛烈な文章である。皇后の西洋風趣味に女官たちが毒され、外見ばかり女っぽくなっていることに対する嫌悪感が吐露されているからだ。