ある記憶を忘れ、別の記憶をとどめた
1964年の前回の東京オリンピックでも、聖火リレーは政治と無縁ではなかった。
オリンピアで採火された聖火は、トルコのイスタンブールからアジアの各都市を巡った。ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン(現ヤンゴン)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北……。
このルートには、かつて日本軍が占領した国がいくつも含まれている。聖火を「平和のシンボル」として位置づけようとする意図があったかにもみえるが、それにしては肝心の中国大陸と朝鮮半島は素通りしている。1964年のリレーコースは、日本がアジアを侵略した戦争の記憶が忘却されたものともいえる。
聖火は台北から、リレーの最初の「国内開催地」である沖縄に入った。当時の沖縄はまだアメリカの占領統治下にあり、この年は本土復帰運動がひとつのピークを迎えていた。
沖縄の人々にとって聖火の国内最初のリレー地点に選ばれたことは「よき日本人」としての資質が問われる機会だった。聖火リレーに向けて沖縄全土で清掃運動が実施され、1ヵ月前には通しのリハーサルが行われたという。
沖縄を通過した後、リレーは鹿児島、宮崎、千歳(札幌近郊)の3ヵ所を起点とする4つのコース(千歳からは2コース)に分かれ、東京を目指した。聖火はすべての都道府県を回り、リレー参加者は計10万713人にのぼった。
日本列島を駆け抜けた聖火は、有楽町にあった東京都庁前に集められ、さらに皇居前広場の聖火台に移された。開会式当日に最終聖火リレーが行われた青山・外苑を抜ける道は、新しい東京を象徴する新たな動脈だった。
国内リレーのコースは、日本列島の中心、そしてこれからの経済発展の中心が東京であるということを、全国民に向けて目に見える形で示した。
最終ランナーは19歳の坂井義則だった。坂井は早稲田大学1年生で競走部に所属し、東京オリンピックの陸上400メートルと1600メートルリレーの強化選手に指定されていた。しかし、7月の代表選考会で敗退する。抜けがらのようになっていたところへ、聖火リレー最終走者の候補に入ったとの知らせが舞い込んだ。
坂井は1945年8月6日、広島生まれ。原爆投下から3時間後に生まれたという「話題性」も手伝って、最終走者に選ばれた。新聞は坂井を「原爆っ子」と呼んだが、アメリカの知日派からは「聖火ランナーに原爆を結びつけるのは、日本の自己憐憫だ」という声も聞こえた。
裏を返せば、敗戦からの復興を世界に示すための象徴的な人選だったのだろう。坂井自身、そのことを自覚していた。彼は後年、次のように語っている。
「東京オリンピックは高度成長の入り口にあった日本の輝きを世界に発信する祭典だった。そして、自分たちはその高揚感を全土に伝えるメッセンジャーだった」
1964年東京オリンピックの聖火リレーには、ある記憶を忘れさせ、別の記憶をとどめるための演出があった。ベルリン・オリンピックとは次元が違うにせよ、東京オリンピックの聖火リレーにも開催国の政治的な思惑が働いていた。