参院選で露呈した「若者に無責任な政治」のリアル

問われるべきは「大人」たちの態度だ
後藤 和智 プロフィール

若い世代の政治的無関心が嘆かれるのと表裏一体の現象として、積極的に政治的な主張をするような若者が「素晴らしい若者」としてメディアに採り上げられることがあります。

2000年代以降の例で言うと、例えば当時予備校生で、NHKの「真剣10代しゃべり場」で保守系の主張をしていた遠藤維大が、『正論』2001年9月号に「自傷行為「リスカ」と日教組」という文章を寄稿。その内容は、若い世代の精神状況の原因は日教組に代表される戦後教育である、というものでした。

また2014年に産経新聞社が開設したニュースサイト「iRONNA」においては、1995年生まれの慶大生の山本みずきが「特別編集長」として登場しています3

そもそも山本は、高校生時代にボランティア団体を立ち上げ、2013年には『正論』2013年9月号に「18歳の宣戦布告」という文章を寄稿しています。特定の主張を持った若い世代をメディアが「利用」するのは、決してSEALDsまわりの論客のような左派だけではない、ということは知っておいた方がいいでしょう。

さらにメジャーな例を挙げるとすれば、タレントの春香クリスティーンでしょう。クリスティーンは出身地であるスイスでの経験から、日本の若い世代がなぜかくも政治的に無関心なのかに疑問を持ち、もっと政治に興味を持つべきだ、と述べることがあります。

例えば2013年の参院選のときには、毎日新聞において《高校2年まで暮らしていたスイスの学校では、休み時間になると政治や社会問題について友達と当たり前に話していた。それが日本に来てびっくり。まるでタブーかのように一切話さないでしょう。聞くと「政治家はみんなウソつき」とか「私が関わっても何も変わらない」という子が多くて》というコメントを出しています4

そのほか、NHKの「日曜討論」などの番組にも登場し、「政治や社会に関心のある若者」のモデルとしての活動が見られます。

他方で、先に引いた1994年の成人の日における毎日新聞の社説にもあるとおり、若い世代の政治参加のロールモデルとして、1960年代の全共闘運動、学生運動や、1970年代のカウンターカルチャーに代表される「怒れる若者」が存在してきました。若い世代の政治参加の可能性としてかつてのデモを採り上げる動きは、過去に何回か見受けられます。

例えば『週刊金曜日』編集部による『70年代 若者が「若者」だった時代』(金曜日、2012年)は、1970年代のカウンターカルチャーを参照して、「社会を変える」可能性を現代に見出すというものでした。また1988年生まれの政治学者である佐藤信は、2011年に出された『60年代のリアル』(ミネルヴァ書房、2011年)で、現代では失われた政治の「リアル」に触れています。

このように「現代の若者の政治的無関心」と「かつての『怒れる若者』」という、「若者と政治」をめぐる2つの像が交錯する中で、若い世代をめぐる政治についての議論は深められてきたかというと、残念ながらそうとは言えません。

2000年代終わり~2010年代はじめの「ロストジェネレーション(ロスジェネ)」による運動です。2005年~2007年における「ニート」論への反論や若い世代の労働環境の過酷さを訴える言説に端を発するこの運動は、若い世代の「新しい運動」として採り上げられつつも、最終的には世代の問題に閉じ込められ、左派を既得権益層としてバッシングする言説のみが残ったというのは、以前の「現代ビジネス」の文章で触れた通りです。

若い世代の政治的無関心を嘆きつつ、他方でその時々に現れた「怒れる若者」を持ち上げて消費するというメディアの動向は、むしろ若い世代を身近な政治から遠ざけ、無関心を醸成してきたと言えるでしょう。

左派の運動界隈がSEALDsを持ち上げている影で、ネット上においては彼らに対する中傷としか言い様がない批判が渦巻いていたのは、むしろ若い世代の政治的無関心を嘆き、「怒れる若者」や「政治に関心のある若者」を消費しつつも、実際にどう考え、行動すべきかについては「お前らが考えろ」と「大人」としての責任をメディアが放棄してきた故の結果と言うほかありません。

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