森金融庁は「銀行が永続的な成長を目指すならば、何よりも顧客基盤の成長、活性化にも責任を持たなければならない。それこそが真の健全性だ。そのためには財務や収益だけで金融庁が銀行を判断するのも、銀行が取引企業を判断するのも間違っている。
銀行は取引先の事業や将来性を深く理解し、これまでのような“貸しさえすれば良い”ということだけではなく、本業支援にも本気で取り組むべきだ。そして金融庁はそうした銀行のビジネスモデルを深く洞察する行政に転換しなければならない」と言っているに過ぎない。
画一的な形式を重視する金融検査マニュアル時代に戻るはずだとかといくら固執したところで、どちらが理にかなっているかは自明だ。人口減少社会において、これまで通りの、顧客を見ずに自らの保全だけを見る金融でこの先良くなるとの考えは、誰もがおかしいと感じるはずだ。
大変革には、想定外の問題や修正は付きものだ。銀行界に限らず、いち早く時流の先を読んで、先手を打って動く人や組織こそが「先行者メリット」を享受することができる。
そして一度動き始めた時流はそう簡単には元には戻らないことも我々は知っている。
どん底からの挑戦
本書で何を読者に伝えたかったのか。いくつかのポイントがある。わずかだが紹介したい。
一つは、いかに人間は愚かで過ちを犯しやすい生き物かという永遠のテーマだ。
不良債権問題の抜本的な解決という重大テーマを帯びた金融庁は金融検査マニュアルを振りかざし、徹底的な資産査定に挑み、反論をねじ伏せ、勝利した。当時の大蔵省がスキャンダルにまみれ、不良債権問題に対処できなくなっていたことを踏まえれば、金融庁の不良債権処理は行政史においても評価されるべきものだ。
しかし、金融検査マニュアルに従順な銀行を磨いていく過程で、貸し渋り解消のため国策として拡充された信用保証制度の100%保証に、銀行が「究極の保全」目的でこぞって飛びつき、それを金融庁も是認し続けた辺りから銀行がおかしくなっていった。
信用力のない企業だからこそ保証付き融資が必要なのだ。にもかかわらず、銀行は信用保証協会に「病人」の企業を担ぎ込んで、100%保証付き融資で自らの貸出残高を積み上げるだけ積み上げ、あとは企業の経営改善に取り組むこともなく、ただ見て見ぬふりをした。銀行に取引先の事業の目利きを期待できなくなったのもこの頃からだ。
いまだにこの悪弊は連綿と続いている。銀行員をダメにしている。
企業の経営が失速して破綻すれば、銀行は保証協会の代位弁済で融資の100%を回収して取引は終了。残された保証協会は延々と返済を迫り、回収できない分は最終的に我々の税金につけまわされてきた。
検査マニュアル、信用保証制度、金融庁、銀行という負の循環、構造的問題を断ち切ることができないまま今日に至った。なぜか。「不良債権処理」、「貸し渋りの解消」という正しい問題意識の下で始められたからだ。
よかれと思って始めた改革に副作用があり、のちに副作用が肥大化した場合は、人間はなかなか立ち止まることはできない弱さがあるということを、読者と一緒に考えたかったのだ。
そして、もう一つ金融に関係のない読者にも受け取っていただきたかった筆者の思いは、この本に登場するのが、いずれも挫折や苦境を乗り越えてきた人間や金融機関ばかりということだ。「人生負け知らずの超エリートが大成功を収めてます」という物語を読まされて、心を揺さぶられる読者はいない。
地域金融の改革の原動力、推進力となっているのは、どん底の状態から這い上がってきた人間の力だ。
いま一つ。本書『捨てられる銀行』は既に過去の話だと言える。動き出した金融庁の大改革、金融史から見た地域金融、なぜ銀行員がダメになったのか、それでも地方で革新を起こしている銀行はないのかを中心に書いた。問題は、ここから先、改革の行方はどうなるのか、なったのかだ。
「このタイトルは大げさだよ」というお声もいただいた。しかしながら、むしろ筆者は、銀行が「捨てられる」どころでは済まないのではないかと、森金融庁が挑む改革の本気度に戦慄し始めている。
「顧客本位とかそんな甘いもので経営はできない」と斜に構えて見るのは大いに結構。しかし、地域金融の先には人の生活があり、生業があり、ぬくもりや夢があることにも思いを馳せてほしい。
単なる批評からは何も生まれない。困難な問題に立ち向かう行動する人たちに、我々はどういう声を掛けてあげられるのだろうか。
共同通信社経済部記者。1975年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。2006年共同通信社入社。経済部記者として流通、証券、大手銀行、金融庁を担当。09年から2年間、広島支局にも勤務。金融を軸足に幅広い経済ニュースを追う。15年から2度目の金融庁担当で、地域金融を中心に取材
読書人の雑誌「本」2016年9月号より