林立する地方アートフェスティバル
ビエンナーレやトリエンナーレとしばしば呼ばれる数年ごとのアートフェスティバルが、地方や地方都市を舞台として、さかんになっている。
今秋にも、あいちトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭や山形ビエンナーレ、岡山芸術交流、さいたまトリエンナーレなど数多くの開催が予定されている。
絵画や写真が美術館で展示されるだけではなく、野外インスタレーションや住民や観客の参加を求めるパフォーマンス的アートが国内外から地方や地方都市に観客を引き寄せているのである。
こうしたアートフェスティバルに対する筆者の立場をあらかじめ示しておけば、基本的には喜ばしいことと思う。
少子高齢化のなかで移動が減少し、経済の沈滞がみられ、モールを除けば新たな出店もまれな地方では、これまで以上にあたらしい出来事が少ない。そのなかでアートという「何でもあり」の余白をもった活動や表現は、地方に外部につながる窓を開くことで大きな意味をもつと考えられるのである。
ただし現状に完全に満足かといえば、腑に落ちないのは、①アートフェスティバルが国や自治体の支援を受け、多くの税金が投入されていること、さらにより本質的には、②そこで本当に「何でもあり」な活動が実現されているかという問題である。
税金の効率的使用を議論したいわけではない。アートが国や地域によって支えられ、それがそのあり方を変えられてしまうという事態のほうがむしろ気にかかる。
こうした問題は利害関係者ごとに異なる姿をみせるために、その是非は一筋縄では判断しがたい。それを少しでも解きほぐしていくために、アートフェスティバルが現在のように林立している経緯と歴史をまずたどっていこう。