時代の的を射た「ポスト真実」
「今年の言葉」とはかくあるべし。そう言いたくもなる。オックスフォード大学出版局は、11月中旬、2016年に注目を集めた言葉に「ポスト真実」(post-truth)を選んだと発表した。どこぞの「流行語」とは比べものにならぬ、衝撃的だが、時代の的を射た言葉である。
客観的なデータや事実よりも、感情や個人的な信条へのアピールが、世論形成に大きな影響を及ぼしてしまう。「ポスト真実」は、そんな状況を指し示す。ブレグジットやトランプ現象を通じて、英語圏で使用頻度が急増したという。
もちろんこうした問題は、大衆社会の負の面として昔から認識されてはいた。ただ、SNSの時代になってそれが可視化され、より目立つようになった。
インターネット上には、政治家(だけに限らないが)に関して嘘のニュースや合成画像、根拠のない噂話やデマが、思想の左右を問わず大量に出回っている。そうした情報は、アルゴリズムの最適化によって、グーグル検索やフェイスブックのニュースの上位に表示され、あっという間に広まってしまう。紙媒体などと異なって、訴えられることも少ないので歯止めがかからない。
これは英米だけでなく、他国でも起きている現象だ。そのため「ポスト真実」という言葉は、日本でもにわかに注目を集めた。
「ポスト真実」は2016年だけではなく、来たる2017年の社会を見通すうえでも大いに参考になる言葉である。とはいえ、プロパガンダや「マスゴミ」批判などとの関係で、ミスリーディングな理解もないではない。そこで、年の締めくくりに、この言葉を取っ掛かりにして今後の対抗策と展望を考えてみたい。

「ポスト真実」社会はプロパガンダ社会?
「ポスト真実」社会は、プロパガンダがふたたび幅を利かせる社会になるとの指摘がある。まずここから考えてみよう。結論をさきにいえば、この指摘は完全に間違いではないが、誤解を招きかねないものである。
そもそもプロパガンダとは「政治的な意図に基づき、相手の思考や行動に(しばしば相手の意向を尊重せずして)影響を与えようとする組織的な宣伝活動」を意味する。その主体は、基本的に国家や政党などの組織だ。企業のCMや独立した個人の政治主張は、通常プロパガンダに含まれない。
ロシア政府が、デマをばらまくフェイクニュースサイトを通じて、アメリカの大統領選挙に影響を及ぼしたとの指摘も、あるにはある。これが事実ならば典型的なプロパガンダだが、まだ仮説の域を出ない。
それよりも、営利目的の個人やグループが、アクセス数や広告収入を目当てに、フェイクニュースサイトを運営しているとの報道のほうに遥かに説得力がある。マケドニア人の少年グループが140以上ものサイトを開設して、ひとびとを煽っていたというBuzzFeedの報道がその代表例だ。
では、プロパガンダが幅を利かせた時代が今日まったく参考にならないかといえばそうでもない。歴史を振り返ると、プロパガンダとされる音楽や映画などの多くは、政府や軍部の主導ではなく、民間企業の主導によって作られていた。
戦争は熱狂を生む。戦争関連の商品はよく売れる。だから、民間企業は時局に便乗して商品を送り出した。日本でいえば、1932年に誕生した軍国美談「爆弾三勇士」に関連して、複数の映画やレコード、すごろく、人形、紙芝居などが作られた。民衆もこうした便乗商品を好んで買い求めた。政府や軍部はそれを利用するかたちで、プロパガンダを行ったのである。
こうして現在を見ると、「ポスト真実」社会でも似たことがいえそうだ。フェイクニュースサイトの管理者は営利目的でやっている。閲覧者はこれを喜んで見ている。そのうえで、もしかするとどこかの政府がこれを都合よく利用しているのかもしれない。
それゆえ、プロパガンダに対する警戒は必要だが、「上から」の統制だけ見ていては事態をうまく把握できないだろう。むしろ「下から」の便乗ビジネスや草の根の運動にこそ警戒しなければならない。「ポスト真実」社会=プロパガンダ社会という図式は、「下から」の動きを見落としがちという点でややミスリーディングである。