時期と内容に照らせば、ロシア側の熱意が急速に冷めていった最大の要因は、谷内氏のモスクワでの発言に違いないとの観測は成り立ちうるであろう。常識的に見て、自国に武器を向けてもらうために領土を譲渡する国などあるわけがない。
とはいえ、日米安保条約は地域的例外を認めていない以上、歯舞・色丹が日本領となった時点で、そこに米軍基地が置かれる可能性は論理的に発生する。
おそらくは、パトルシェフ氏の問い掛けは、文字通りの問いであるよりもむしろ、日本の独立国としての意思の有無を問うものであった。
なぜなら、日米が対露戦力の増強を本気で図りたいのならば、北海道に米軍基地を新設することも可能であり、これを阻止する絶対的な手段をロシアは持たないからである。
してみれば、ロシア側が知りたかったのは、安倍政権が真剣に交渉する相手に値するか否かということであり、彼らは「値しない」という結論を得たに違いない。
このことは、プーチン大統領の訪日直前の「読売新聞」と日本テレビによるインタビューでの発言が裏書きしている。
プーチン氏の次のような言葉は、国家元首の発言として相当に踏み込んだものであることには、注目されねばならない。
「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどれぐらい実現できるのか見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか。我々は何を期待できるのか。最終的にどのような結果にたどり着けるのか」
「日本には同盟関係上の何らかの義務がある。我々はそのことを尊重するのはやぶさかではないが、我々は日本がどのくらい自由で、日本がどこまで踏み出す用意があるのか理解しなければならない。
日本がどこまで踏み出すかを明らかにすることが必要だ。これは二義的な問題ではない。平和条約署名という最終合意のために、何を両国間の基礎とするかによって、結果は違ってくる。これが、現在の露日関係と露中関係の違いだ」
あからさまに言えば、これは「一体あなた方に独自の意思というものはあるのか? 現に独立国でなく独立国たろうという意思すらも持たない国とは、真面目な交渉はできない」というメッセージであり、さらには「中国は独立国だが、日本はそうではない」とも示唆しているわけである。

訪日時の共同記者会見では、プーチン氏はさらに踏み込んで1956年の日ソ共同宣言の直後に起きた「ダレスの恫喝」に言及した。これは、日本が(四島ではなく)二島返還でケリをつけて日ソ平和条約締結へと進むのならば、沖縄の返還はしない、という圧力を当時の米国務長官ジョン・フォスター・ダレスからかけられた事件だ。
この事件は、戦後日本の外交が主体性を持ち得ず、舵取りの最終審級を米国に握られてきたこと(より正確に言えば、米国の意思を過剰忖度することによって自ら主体性を放棄してきたこと)の象徴である。無論、日本政府は、この事件の存在を公式に認めていない。
してみれば、このプーチン氏のメッセージをここでもよりあからさまに翻訳するならば、それは次のようになるだろう。
「あなた方日本政府のエリートたちが領土問題に関して日本国民に隠している重大な事柄について、我が方は百も承知である。約60年前にあなた方が米国から受けた屈辱のなかに、さらになおあなた方は進んでとどまるつもりなのか? そのような誇りなき人々と交渉する意味はない」
これではただの「ガキの使い」
果たして、日本のなかの一体誰が、プーチン氏のこれらの発言を非礼で不条理なものとして非難できるだろうか。
『永続敗戦論』では、「ダレスの恫喝」が発生した経緯、東西対立の構造と当時の日米の国力格差からこの恫喝に日本側が屈するほかなかった事情、そして国際関係も国力格差も大幅に変容したにもかかわらず、現在もなお、日本政府の北方領土問題への対応がこれによって呪縛されている様を詳述した。
これらの歴史を踏まえると、プーチン氏の至極当然の苛立ちが見えてくる。
安倍首相はプーチン大統領との親密な関係を繰り返しアピールし、ウクライナやシリアの情勢をめぐって米露関係が緊迫するなかで、あえてロシアとの接近を図った。
ロシア側からすれば、こうした動きは、語の真正な意味で日本が「戦後レジームからの脱却」(すなわち、対米従属の相対化)を模索しているサインに見えたかもしれない。
それだけに、先に見た谷内氏の発言以降、失望の色を隠せなかったのである。
しかし、ロシア側が見落としていたのは、永続敗戦レジームのエッセンスのごとき安倍政権が、文字通りの「戦後レジームからの脱却」などそもそもできるはずがなかった、ということではないか。
プーチン当局としては、一旦は本気になったがゆえに、徒労感は強いであろう。しかし彼らは、3000億円の投資を呼び込むことで、授業料はきっちり回収したのである。
翻って日本側はどうか。
米国自らが「世界の警察官役を降りる」と宣言した世界において、「ワシントンに聞かないとお返事できかねます」としか言えない「ガキの使い」では、もはや世界の誰もまともに取り合ってくれないという事実を学んだ(はずである)。
その授業料は3000億円だった。日露間で何かがともかく前進しているという体裁を取り繕うために、それは持ち出されなければならなかった。その原資は血税であるが、いまだ永続敗戦レジームを支持し続けている無知未熟な者は、「独立国ごっこ」に興じ続ける限り、高い授業料を破産するまで払い続けなければなるまい。