ホスピスで働く人のためのプログラム
「死の疑似体験」というものに参加してみました。
そのウェブサイトには、『自分が病にかかり、病気が進行し、やがていのちを終えていく物語を追体験する「死の疑似体験」。自分にとって「生と死」とは何か? 本当に大切にしていることは何か? ワークショップを通して考えていきます』と書かれています。
このプログラムは、ホスピスなどで死に関わる仕事をしている人のために、アメリカで作成されたそうです。
死んだらどうなるかということは、体験してみないとわかりません。しかし、体験してしまうと戻ってこれないという問題があるので、僕にとって一番の謎となっていました。そういう話を編集部のTさんにすると、早速この「死の疑似体験」を見付けてくれたのでした。
死んだらどうなるか、そんなことで悩んでも仕方がない、とおっしゃるのは解剖学者の養老孟司さんです。「死」のことは、養老さんの『死の壁』やその他の著書でもよく出てきます。
養老さんは、死ぬということは自分がなくなるんだから、死についての悩みを持ちようがない、それは親族や近しい人達(2人称)のなかにしかない、だから自分の死とは何かということはただの理屈でしかない、そんなことに意味はないから私は考えない、というようなことを一貫しておっしゃっています。
でも、そう言われても……と思うんですね。養老さんの本は面白いからよく読むのですが、僕は「死」ということをそんなに簡単には割り切れません。
僕がこれまで会ってきた人達のなかには、死後の世界を詳しく語ってくれた人や、「人間には永遠の生命があることに気付けず、必ず死んでしまうという観念から抜け出せないから死ぬんです」と言う人もいました。
本当はどうなんでしょうね。科学では死んだら何もなくなってしまうことになっているので、養老さんの言うことはよくわかります。
僕も本当はそう思っているのですが、でもひょっとしたら死後の世界があったり、霊として残ったりすることもあるかもしれないとも思っているのです。
そう思うのは僕だけでなく、大多数の人が漠然と思っていることではないでしょうか。宗教に関わっている人はもちろんのこと、宗教を信じない人でも、お彼岸やお盆にはお墓参りをして、亡くなった人の霊に手を合わせたりしているわけですから。

お通夜みたいな雰囲気
「死の疑似体験」は、夜7時から始まります。
そういえば、お通夜もそのぐらいの時間からですね。というのは、この「死の疑似体験」の会場である都内の大きなお寺の地下会議室に行ったとき、なんとなくお通夜に来たような雰囲気があったからです。
受付の人もお通夜みたいな神妙な顔で、香典ではなく参加費を集めています。参加している人も、笑顔の人は1人もいません。派手な衣装の人もいません。どこからか、お焼香の香りが漂ってくるような気もします。
「死の疑似体験」のウェブサイトに、ワークショップという言葉があったのが気になっていました。
若いころ対人恐怖症のようなところがあったので、みんなで意見交換するようなことがすごく苦手でした。だから、ワークショップのようなものには参加したことがなかったのですが、編集者のTさんが一緒だったので安心していました。ところが、受付で席は別々に座るように言われたので困ったなと思ったのでした。
机と椅子が部屋の壁に向かって並べられていて、全員壁に向って座るようになっていました。僕の両隣は女性の方です。30人ほどの参加者の約3分の2が女性のみなさんでした。しばらく壁と対面していると、照明が暗くなり、講師の方がマイクで話し始めました。