なぜ大人になると「生きる意味」を問わなくなるのか
絶望と向き合ったある哲学者の思考生きる意味、という難題
人間はいろいろなことについて意味や目的を問うてしまう。
考えることができるということは、人間のとても幸福な側面でもあるし、この上なく不幸な側面でもある。
いずれにしてもわれわれは、一心不乱に何かに取り組んでいても、ふと立ち止まり、自分の姿を見つめ直して、「なぜ」、「何のために」と問うてしまう。「なぜ働くのだろう」、「何のために勉強するのだろう」と。
あるいは、自分や身近な人に不幸が(幸運でもいい)生じるようなときにも、われわれはやはり同じように問うてしまうだろう。「なぜこんな目にあうのか」、「この人の人生は何のためにあったのだろう」と。
このような生の意味をめぐる問いに直面しても、われわれのほとんどは、ほどほどのところで考えることを止めてしまう。なぜだろう。おそらくその理由の一つは、そうした問いが孕む不吉な予感にあるのではないか。
つまり、そうした問いにかかずらっていると、いずれよくないところに足を踏み入れてしまいかねない、そうわれわれが感じ取るからではないか。
「生きる意味について考え続けたって、ろくなことはない」。そう結論づけて踵を返し、われわれはまた一心不乱に勉強や仕事に励む。
その不吉な予感の正体は何か。何を恐れてわれわれは、生の意味をめぐる問いと思考を、ほどほどのところで切り上げるのか――それは、生の意味をめぐる問いの答えのなさである。
そして、19世紀デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールは、その答えのなさが人間にもたらす心理状態を「絶望」と呼んだ。
絶望はなくならない
キェルケゴールが絶望について考察したのは、主著『死に至る病』においてである。
1848年に執筆されたその本の中で、彼はいろいろな角度から絶望に光を当ててみせる。なぜ人間は絶望してしまうのか。絶望は人間にとって悪いことでしかないのか。絶望はどんな形で人間の中に巣食うのか、などなど。
この最後の点についてここでほんの少しだけ触れてみると、例えば彼はこんな鋭い指摘をしている――ある人は言う、「高校生や大学生のころは、生きることの意味をめぐってよく思い悩んだものだ。でも今となってはね。仕事は忙しいし、家のローンもあるし、子育てもあるし。もうそんなにヒマじゃないんだ」と。このような態度で生きている人はじつはたくさんいる。
さて、こうした人は、絶望に蓋をしているだけで、じつは絶望を克服したわけではないのではないか。
そして、その蓋はふとした拍子に外れてしまい、絶望はまた簡単に顔をのぞかせるのではないか。
例えばちょっとした不幸が、リストラされるなんていう不幸があってみれば、いつだってこうした人は絶望の奈落に引きずり込まれるのではないか(『死に至る病』の一節「地上的なものをめぐる、あるいは地上的な何かをめぐる絶望」を、現代風に読み替えてみた)――。