タモリは「ちょっと反省している」
タモリはまた、名古屋弁とあわせ、名古屋人の行動パターンにも興味を抱く。それをネタとして披露するようになったのは、先の1981年のインタビューでは「3年前から」と語っているが、実際にはもう少し前だと思われる。
筒井康隆の『腹立半分日記』(実業之日本社、1979年)の1976年12月18日付には、神戸の筒井宅を訪ねたタモリが、宴会で《新しい芸をいろいろと披露》し、そのなかに《典型的な名古屋人がバーにやってきたところ》というネタがあったとの記述がある。タモリがデビューした翌年のことだ。これを観た筒井ら仲間は《車の鍵をチャラチャラいわせながらドアから入ってくるところで、はや、腹をかかえ》たという。
「車の鍵をチャラチャラいわせる名古屋人」というネタは、タモリの友人で、名古屋出身の写真家・浅井愼平の入れ知恵であったらしい。のち1981年4月に始まったタモリをホスト役に据えたバラエティ番組『今夜は最高!』(日本テレビ)の第1回では、浅井が同じく名古屋出身の女優・竹下景子とゲスト出演し、タモリとこの話で盛り上がっていた。
ともあれ、名古屋ネタはデビュー直後に生まれたとはいえ、世間に広く知られるようになったのは、やはり1980年前後のようだ。1981年には、名古屋が名乗りを上げていた7年後のオリンピック開催地が決定することになっていた。それもあってだろう、タモリの名古屋ネタはますますエスカレートしていく。この年6月には、「ラジカル・ヒステリー・ツアー」と題する全国ツアーで名古屋にも訪れ、11日に名古屋大学の学園祭(名大祭)、12日に愛知県勤労会館で公演を行なっている。
このときの模様を伝えた『中日新聞』1981年6月15日付夕刊の記事には、名大祭の実行委員長の話として、タモリの公演は半年前から計画を立てており、当初その名古屋ネタは《あれほどドギつくなかったんですけど、どんどんエスカレートしてきちゃって――。ボク自身、ちょっと反省しているんです》とある。
ちなみにこのとき出演者として、タモリと並び候補にあがっていたのは、シンガーソングライターのさだまさしだという。当時、タモリが名古屋とともに“宿敵”としていた相手である。
なお、前出の『中日新聞』の記事には、おしまいにタモリとの一問一答も掲載されている。そこで「なぜ、名古屋を槍玉にあげるのか?」と問われたタモリは、じつは大阪も東京もどちらかといえば好きではないと明かしたうえで、次のように語った。
《なんとなく一歩離れて、内地として日本を見るようなことありますね。父も祖父も満州の生活が長くて、しかも道楽者。ひょっとしたら、その影響もあるかなあ。名古屋は日本で一番日本的なものが集約されてるような面もありますし、言葉がすごい》
拙著『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書、2015年)でも詳述したとおり、タモリの一族は戦前、満鉄(南満州鉄道)の駅長まで務めた祖父をはじめ、満州(現在の中国東北部)で暮らしていた。
こうした事実から私は、家族を通して満州がいかにすばらしいか日常的に聞かされるうちに、タモリのなかでは日本の風土や生活を相対化する習慣が養われていったのではないかという仮説を立てた。上記の当人の発言は、その何よりの証拠といえよう。ついでにいえば、「なんとなく一歩離れて日本を見る」という姿勢は、現在の『ブラタモリ』にいたるまで、タモリに貫かれているものではないだろうか。