タモリはなにを発見するのか
タモリが名古屋ネタをエスカレートさせたのは、先述のとおりオリンピックの招致運動が佳境に入った時期だった。結果的に1981年9月30日のIOC総会で、名古屋は韓国・ソウルに大敗を喫する。オリンピック招致を主導した愛知県は、この反省を踏まえ、やがて今度は21世紀初期の万博開催に向けて動き出す。これは招致に成功し、2005年には愛知万博が開催された。
不思議なことに1981年という年は、オリンピック招致以外にも、名古屋が全国的に注目されるできごとがあいついだ。
河出書房新社主催の小説新人賞である「文藝賞」に、当時名古屋市内の高校に在学していた堀田あけみの『1980アイコ十六歳』が選ばれた。同作の舞台も名古屋で、作中に登場する女子高生たちも名古屋弁で会話している。文学の世界ではまた、名古屋出身の清水義範が『昭和御前試合』でデビューしたのもこの年だ。清水はその後、名古屋を題材とした作品も多数発表している。その嚆矢となった『蕎麦ときしめん』(1984年)は名古屋論を装った作品で、名古屋人と自動車の関係について冗談とも本気ともつかない筆致で説明するくだりなど、タモリの影響を感じずにはいられない。
あるいは、愛知県在住のマンガ家・鳥山明が前年より雑誌連載を開始した『Dr.スランプ』は、この年、『Dr.スランプ アラレちゃん』というタイトルでテレビアニメ化され、ブームとなった。作中には、名古屋弁をしゃべる宇宙人・ニコちゃん大王が登場するなど、たびたび名古屋がネタにされた。
このほかにも、同時期にブームとなったアニメ『機動戦士ガンダム』には名古屋テレビが製作に参加しているし、「なめ猫」と名づけられた猫たちの一連のキャラクターグッズは、やはり名古屋のCBCテレビの番組からブームに火がついたとされる。
これらできごとがあった1981年を、私は「ナゴヤ元年」と勝手に呼んでいる。このときあらためて確立された地域アイデンティティは、2005年の愛知万博開催前後に起こったなごやめしブームなど、名古屋文化が全国に注目される原点となったはずだ。そう考えるにつけ、タモリの名古屋に対する“貢献”の大きさを思い知らされる。
奇しくも1981年は、タモリにとっても大きな画期となった。『今夜は最高!』をはじめ自らがメインとなる番組が複数開始する一方、それまで舌鋒鋭く批判してきたさだまさしに対し、ラジオ番組『オールナイトニッポン』で“休戦”を宣言するなど、攻撃的な芸風にも変化が表れた。このころタモリは、所属事務所・田辺エージェンシー社長の田辺昭知から「従来の持ちネタに安住しないで、ネタを持つことにシビアになれ」と要求されていたという(『週刊明星』1982年3月18日号)。
この年にはまた、国鉄や朝日新聞、民放連といった堅めの団体・企業のCMにあいついで出演するなど、タモリはそれまでの密室芸人からソフィスティケートされたタレントへと脱皮をはかろうとしていた。はたしてイメージチェンジに成功した彼は、翌82年10月には『笑っていいとも!』で司会を始め、「日本のお昼の顔」になるにいたる。
同時期にエポックを迎えた名古屋とタモリ。その両者が久々に交わる。自分が期せずしてアイデンティティに目覚めさせることになった当地で、タモリは一体なにを発見するのだろうか。
