2017.07.03

東大名誉教授が解明「石原裕次郎が日本一愛される男になったワケ」

スターと大スターの大きな違いがあった

今年7月に没後30年を迎える石原裕次郎。東大名誉教授・本村凌二氏がこのたび著した『裕次郎』は、高度経済成長期の熱気に満ちた「昭和」を、国民的ヒーローの振る舞いとともに振り返る文化史だ。その最新刊の冒頭部を特別公開する。

日本でもっとも愛された男

雨上がりの虹はどこか人の心を惹きつけてやまない。艶やかでありながら儚くもあるたたずまいに魅せられるのだろうか。高見順という詩人は「虹」という詩のなかで、こうもらしている。

ひとびとの
悲しいおもいが
昇天して虹になる
悲しみが美しく
天を飾るのだ

昭和を代表する大スターが亡くなった日、雨上がりの東京の空には虹がかかっていたという。まさしく「ひとびとの悲しいおもいが昇天して虹にな」ったのだろう。

昭和六二(一九八七)年七月一七日、石原裕次郎は五二年の生涯を終えた。その若すぎる死がどんなに多くの人々の涙を誘ったかはもはや筆舌につくせないものがある。

思うに、スターというものは概して言えば異性に好かれることが多い。だが、敢えて大スターとよべるのは、異性にも同性にも好まれる人物ではないだろうか。この意味でも裕次郎はしばしば「日本でもっとも愛された男」であったと言われる

今でこそ一八〇センチほどの長身の男性は珍しくないが、戦後一〇年を経たばかりのころ、その立ち姿はひときわ抜きんでていた。

撮影所に初めて来たころ、レンズごしに裕次郎をのぞいたカメラマンは「レンズの外にはみ出している」と嘆いたという。さらに、明るい笑顔でなにごとにも自然体でいられるから、接する者の心をなごませる。しかも低く響く甘い歌声には、男も女も心をしびれさせられるものがあった。

裕次郎が亡くなったとき、同世代の映画評論家は「羨望すべき存在だった」と回想している。

「ぼくは田舎者だったが、彼は都会の子だった。ぼくは貧しかったが、彼は豊かそうだった。だから、自分の青春のシンボルだなどとは思わなかった。

日本にもこういう階級があるのか、こんなに欲求を自由に追い求めることができる人たちがいるのか、と思いながら、その屈託のない明るさは、口惜しいけれども、否定しようにも否定し切れなかった。苦労がなければ充足は得られない、という考えを、ぼくはいまだに抜き難く持っている。

が、裕次郎の描く軌跡は、そうでない考え方があることをぼくに突きつけた。お陰で、ものの考え方がかなり変わった。そういう人間は、もっと元気で生きていてほしかった」(品田雄吉)

裕次郎よりも一〇歳年下であれば、彼の映画デビューのころ、中学生になりかけだったはずだ。銀幕のスターとしての裕次郎にもっとも強く影響を受けた世代ではないだろうか。その世代の写真家はこう語っている。

「両手をポケットに突っ込んで土手に立ち、小高い山のてっぺんを、ちょっと眉をしかめて眺め、せいいっぱい脚を伸ばして、セミ判カメラでローアングルから写してもらった写真は、もうすっかりセピア色だが─

殴られた日、ジャックナイフの気分で、千枚通しやエンピツ削りのナイフを柱に突き刺した。上野行蒸気機関車の汽笛を聴きながら、右手に包帯を巻いて痛がってみると、涙が本当に出てくるのだった。台風の夜、外に飛び出していって、ずぶ濡れになって怒鳴った。歌った。いつだって裕次郎がいた。何だか分からないがスネていた少年時代。

満員の映画館を出ると、みんな大人になっていた。裕次郎が、男の生きかた、やさしさを教えてくれた」(丹野清志)

人間としての存在感

このようにして大きな影響力をもったとはいえ、それほど関心がない人々もいた。東京っ子にはわりとそういうタイプが多いという。裕次郎にかぎったことではないが、映画や音楽のスターに憧れたり、時代や自分と重ねて大騒ぎするのは、だいたい田舎の人に多いのではないかという意見もある。

そういえば筆者も小学生のころは九州の片田舎で育ち、そこで裕次郎映画を初めて見ている。東京で生まれ育ったとすれば、裕次郎ファンになることもなかったかもしれない。そう思えば不思議な気がする。でも、それはそれで大事なものを失っていたかもしれないとも思う。

その大事なものとは、いったい何なのだろうか。そのときだったからこそ、自分の感性で精いっぱい受けとめられたものであり、自分の心に深く沈みこんでいく重みがあった。子供心に重みなどめったに感じるものではないが、あえて例えるなら、負のトラウマではなく正のトラウマとでもよべる経験である。