2017.08.18

なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、その「もや」を晴らす

90年間、ずっと人気

なぜ日本人に人気なのか

2013年以降、ハイデガーの主著『存在と時間』の新訳が相次いで三種類、刊行された(熊野純彦訳、高田珠樹訳、中山元訳)。古くからある数種類の翻訳に加えてのことである。また『存在と時間』の解説書もここ数年、新たなものがコンスタントに刊行され続けている。

このように日本人がハイデガーの哲学、特に『存在と時間』に対して示す関心の高さはほとんど異様とも言うべきものである。

日本人のハイデガーに対する偏愛は昨日今日に始まったことではない。1927年に『存在と時間』を刊行する前、まだ彼がフライブルク大学で師フッサールの助手を務めていた1920年頃には、第一次世界大戦後のドイツに大挙して押し寄せた日本人留学生のあいだで彼の名はよく知られていた。

1924年には年俸1万円という破格の待遇で日本の研究所に招聘する話さえ持ち上がった。当時マールブルク大学で教鞭を執っていたハイデガーにこの話を取り次いだのが、彼のもとで学んでいた三木清である。

ハイデガーの日本渡航は実現しなかった。彼はその話を断るとき、その頃執筆中だった『アリストテレスの現象学的解釈』という著作の仕上げに専念することを理由に挙げている。この著作は1922年、ハイデガーにほぼ同時に二つの大学から招聘の話が来た際に、そのための業績作りとして刊行が計画されたものだが、これが紆余曲折を経て、最終的に『存在と時間』として結実するのである。

『存在と時間』は20世紀の古典と言うにふさわしく、重厚でまた緻密な構成をもった著作だというイメージを持たれている方も多いだろう。しかし『存在と時間』は『アリストテレスの現象学的解釈』以来、かつての仕事にそのつど上書きを繰り返した結果できあがった、つぎはぎだらけ作品と言うほうが実態に即している。

ハイデガーは『存在と時間』の最初の230ページまでの原稿を印刷所に回したあと、いったん印刷作業を中断し、残りの部分を書き換えたために、当初は一巻本として刊行するはずだった原稿の分量が膨れ上がり、二巻に分けて刊行することにした。

しかも『存在と時間』の根本課題である「存在の意味への問い」に対する答えが示されるはずだった肝心の下巻は結局、未完に終わってしまった。「存在の意味」がいかなるものかの理解が深まるにつれ、従来の人間学的立場への上書きではもはや対処できなくなったのだ。