「あなたには罪があります」
中国残留孤児問題が世間の大きな注目を集めたのは1980年代のことだ。1981年3月、孤児47人が肉親を捜すために来日したのがきっかけだった。質素な衣服に身を包み、苦難の歩みを顔に刻んだ大人の「孤児」たち――。壮絶な運命を背負った彼らの姿がテレビに映し出されるまで、多くの日本人は異郷に取り残された同胞を忘れ去っていた。
中国残留邦人の永住帰国がこれほど遅れたのは、1972年の日中国交正常化の後でさえ、国が能動的に手を差し伸べてこなかったからだ。1981年になってようやく政府は重い腰を上げ、孤児たちの集団訪日調査が始まったが、その背景には山本慈昭といった民間人の多大なる尽力があった(現在までに永住帰国した孤児は2,556名。厚生労働省の公表 http://www.mhlw.go.jp/stf/
だが、時の流れは残酷だった。日本人孤児の身元判明率は下がり続け、2000年からは中国現地での日中共同調査に切り替わったが、2009年以降、身元の判明した孤児はいない。残留孤児に対する世間の関心も低下していき、とりわけ2世3世への支援はおざなりになっている。
そのようななかで起こっているのが、2世の都営住宅の退去問題だ。冒頭でも述べたが、国や自治体は、残留孤児1世には優先的に公営住宅に住む権利を割り当てて支援を行ってきた。だが、2世には違った。1世が亡くなったら、原則、彼らは公営住宅からの退去を迫られるのだ。
公営住宅からの退去問題に直面するのは、晩年になって永住帰国した残留孤児とその家族である。1世が高齢になって帰国を決意すれば、当然ながら、1世に付き添って帰国する2世家族の年齢も上がり、日本社会での自立が困難となる。
東京都西部に住む残留孤児2世、50代半ばの周さんも以前、立退きを迫られた一人だ。
「思いたくない。苦しい。ときどき、家で妻と一緒に涙が出てきます。涙流れて、このことを言います。どうしてこういうふうになりましたか。来る前に思いいたらない。そうですね、そうですね・・・」
たどたどしい日本語ながらも、彼は自分の言葉で話しはじめた。日本語は独学で勉強を続けているが、日本人と交流する機会がほとんどないため、なかなか上達しない。

日本人の母親は北海道出身の開拓移民だった。やはり彼女も満州で両親と離ればなれとなり、中国人養父母に拾われたが、その生活は苦しく、小学校までしか通えなかった。
1960年代後半から約10年続いた文化大革命期には、"敵国の子"であることを必死に隠し通した。瀋陽で生まれ育った周さんは、そんな母の祖国への想いを肌で感じながら生きてきた。母とともに永住帰国する前、母と一緒に日本を訪れ、母の亡き父の墓参りをしたこともある。
彼は張さん家族と同じように、2010年に帰国を決めた高齢の母とともに家族で日本に移住し、半年間の「所沢センター」暮らしを経て、都営住宅に入居した。中国人の父はずいぶん前に他界していた。
ところが、帰国から3年後に母親は病気で死亡。すると、状況もよくわからないままに都営住宅からの退去を迫られた。
「母死んだ。それから、役所は半年払います。それから、どこでも出ていきなさい。私と関係ない。出てってください。最後は私は罪があります。残留孤児の家を出ていかない。あなたは罪があります。あなたに罰金します。罰金払います」