なぜ多くの人は信じてしまうのか
前回、私たちが運営している「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」では、「がん放置療法」の科学性はきわめて低く、「疑似科学」と評定していると述べた(参照「『がん放置療法』は決して信じてはいけない」)。
がんには本物のがんと“がんもどき”があり、本物のがんは抗がん剤などの治療は有効でないので放っておくしかなく、“がんもどき”はそもそも転移しないので放っておいても問題ない、だから、がんは放置するのが一番よいというのが「がんもどき理論」である。
この「がんもどき理論」は「がん放置療法」を支える典型的な万能理論であり、実際には何の役にも立たない無用な理論であることも解説した。
今回は、役に立たない万能理論を、なぜ多くの人が信じるに至るのかを見ていこう。
検診でがんが見つかったとき、多くの人は体調の悪さを自覚していない。将来深刻な事態になるかもしれないがんがあると言われても、実感がわく人は少ないだろう。そんなときに、現状を肯定してくれる「がん放置療法」は、直感に合致するのである。
これは認知心理学で「現状維持バイアス」と呼ばれている。現状を変えることと維持することと、選択肢が2つあった場合、現状を変えることの利益が明らかに大きく見込めても、人々は現状を維持することを選びがちになる。わざわざ不利な選択をするので、これを認知のバイアス(偏り)という。
わざわざ不利な選択をするというと奇妙に聞こえるかもしれないが、そうでもない。
たとえば、お祭りに行ったらくじ引きで5千円が当たったとしよう。もらった5千円で何を買おうかとお祭りの屋台を見てまわっているうちに、ふと気づくともらった5千円がない。落としてしまったのだ。
さてこのとき、あなたは「お祭りに来る前と同じだから別にいいや」と思えるだろうか。多くの人は、すごく損した気分になるのではなかろうか。
利得と損失が同額であっても、損失のほうを大きく評価してしまい、悔しい気持ちでいっぱいになるのだ。現状維持バイアスの背景に、こうした心の働きがある。
またたとえば、就職した企業がブラックで仕事量にくらべて賃金が安い、明らかに平均以下の待遇だ、という場合はどうだろう。
冷静に考えれば、転職をしたほうが得なのだが、これまで今の職場で頑張ってきたし、ある程度人間関係も築いたと思うと、なかなか転職に踏み切れない。さらに、転職後を想像すると、今より良くなるだろうがもし悪くなったらすごく後悔するだろうと、ますます躊躇してしまう。
がん治療の選択も同様である。治療を開始したら抗がん剤や放射線の副作用でつらい思いをする。それでも治らなかったら、つらい思いの分だけ損したことになり、治療の選択をしたことを後悔するだろうと、放置療法に魅力を感じてしまうのだ。