衰退する日本で、商社だけがなぜ「勝ち組」になれたのか

総合商社の不思議
小林 敬幸

商社では、1970年代のオイル・ショック、80年代からの円高、90年代のバブル崩壊を経て、資源の輸入、工業製品の輸出、新規事業の育成といった様々な面で、どの事業分野でも従来の機能を果たせなくなった。

それに伴って現場では、取引先から面と向かって「あなた方の機能は何か」と問われ、「商社を商流から外す」という宣告を受けるようになり、担当するビジネスの利益率もみるみる下がっていった。商社の社員は、自分の会社が潰れる可能性を感じ、自分の仕事の存続の危機を覚えた。そういう危機意識を、毎日社外の人と接する仕事の中で心に刻み込んでいたのである。

「商社衰退論」ならまだしも、「商社不要論」は身にこたえる。それもお客に面と向かって言われればなおさらである。

三井物産でも、私も含めて少なからぬ社員が、商業の機能や商人の存在意義について、くどくどと考え込んだものである。今振り返ると、そこまで商社と商社の従業員は追いつめられていた。

こうした強烈な、そして、全社員に徹底した「外から刻み込まれる危機意識」こそが、変化への原動力になったのは間違いない。それが、銀行、証券などのせいぜい「内部で感じる危機意識」しか持てずに変われなかった業界との最大の違いではないだろうか。

そうして商社は、七転八倒の試行錯誤を繰り返しながら、従来の売買仲介型ビジネスから脱却し、事業投資型のビジネスを取り入れていく。

例えば資源の分野では、原油・石油製品の輸入売買ビジネスを改革し、自ら油田・天然ガス田の開発・運営まで行うようになった。工業分野でも、プラントの輸出ビジネスが、円高で受注できなくなるという苦境の中で変革を迫られ、徴収した電力料金を継続的な収入源とする電力事業の建設・運営まで行うようになった。

こうして、資源の安定調達、工業の海外進出などに自らの機能を見出し、商社は儲け方を大きく変えていった。

 

売上高は気にしない

商社が、業態を変革し収益を10倍増にできたのは、業績評価の基準を単体売上高から連結純利益(税後利益)に変えたことが間接的に後押ししたと考えられる。

つまり、1980年代までは新聞での評価、商社同士の評価、そして社内の評価と全てにおいて売上高競争に狂奔していたのに、今では売上は気にせず、連結税後利益(純利益)が基準になっている。社内でも課のレベルまで連結税後利益を計算して、評価するようになった。実際に、売上がゼロでも連結税後利益の数字が良いので、いいボーナスをもらっている営業部も多い。

これも、社員に商社の存在そのものへの危機意識があったからこそ、実務で受け入れられてできた変革だろう。

売上の数字というのは、業界内のその会社の地位、ある事業本部の社内での地位、ある人の個人的な評価など、競争における優劣をつけるのには、集計もしやすく分かりやすい。しかし、そればかりを追求していて、利益が伸びなくなってしまうと会社全体の生存が危うくなってしまう。

1990年代の商社は、生存そのものが怪しくなるなかで、現場も含めて、ばかげた売上高競争などやっていられなくなった。もはや業界内の地位を争うよりも、会社の存続を確保する方が大切である。業界内競争、社内競争に地道をあげる余裕が、なくなってしまったともいえる。

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