寺で行われた孝明天皇の葬儀
歴代天皇で初めて火葬されたのは持統天皇で、1300年も昔の大宝3年(703)のことだった。以来、天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の承応3年(1654)に崩じた後光明天皇からはずっと土葬である。
江戸時代の天皇の葬儀は京都東山の泉涌寺で行われた。もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内の「帝王陵」と呼ばれる区画に埋葬された。「陵」といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石塔が立ち並んでいる。
古墳のような墳丘が復活したのは、幕末の慶応2年(1867)に崩じた孝明天皇のときだった。尊王攘夷運動が高まり、明治維新に向かう時期のことである。王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれたのである。ただし、その場所は泉涌寺の裏山で、葬儀も泉涌寺で行われた。
明治天皇の葬儀は大正元年(1912)9月13日の夜、神仏分離によって神道式で行われた。その葬列には平安時代の装束のほかに洋装の礼服もあり、儀仗隊や軍楽隊も加わって和洋混在の葬儀であった。もとは白だった喪服が黒になったのも欧米の風習を採り入れたもので、明治時代からである。
告別式にあたる葬場殿の儀は東京の青山練兵場で執り行われ、柩は陵がつくられた京都の伏見桃山に列車で運ばれた。霊柩列車は14日午前0時40分、送別の号砲とともに青山仮停車場(現在のJR千駄ヶ谷駅)から発車。その時刻に陸軍大将乃木希典と妻静子が自邸で自刃。殉死だった。

その後、朝日新聞に「心 先生の遺書」の連載を開始したのが夏目漱石である。
<夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。
(中略)
御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。(連載原稿百九・百十)>