長く、哀しい日は突然
それは2010年、9月のある日のことでした。
「山中伸弥って知ってる? 今度、週刊現代で対談することになったんよ」
平尾は1枚のディスクを持ち、そう話す顔に笑みがこぼれていました。キッチンにいる私を呼び、平尾は続けました。
「山中教授って言ったらわかるやろ、 iPS細胞の。今年か来年絶対にノーベル賞をもらうって言われてるんやけど、ほんまにすごい人やねんで」
恥ずかしながら、私はこの時初めて山中伸弥さんのお名前を耳にしました。
この日からちょうど5年後の同じ9月、平尾の好きな秋の気配を感じる頃、手の施しようがない末期がんだと宣告された平尾が頼り、全てを懸けて最期までの13ヵ月間を共に闘って下さる親友になろうとは、この時は夢にも思うはずがありませんでした。
2015年9月12日。何の前触れもなく、私にとってこの世で最も恐ろしく、長く、悲しい日は突然やってきたのです。
「末期がんで効果的な薬はなく、手の施しようがありません」
その言葉に全ての色を失い、足だけががくがく震えている私の横で、平尾は一瞬驚いた後、小さく息を吐いてうつむきました。その横顔が今でも脳裡に焼き付いています。
一日おいて平尾は、「山中先生に電話するわ」と言いました。一日おいた理由は、ラグビーワールドカップ英国大会のさなかで受けていた仕事の対応と、トップリーグの神戸製鋼への指示などにつとめていたからです。心が急く私をよそに、彼は仕事を優先させました。
まるで昔からの知り合いのように
「山中先生は美味しいものを食べに行ったときに必ず、奥さんを連れてきてあげたいって言うんよ。それはいつも僕が君に思っているのと同じでびっくりしたんやけど、今度一緒にご飯食べに行ったらええなぁと思って……」
対談をきっかけに、山中先生と友人を交えてのゴルフや会食を重ねていた頃、平尾はこう言いました。
四人での食事が現実になったのは、2011年7月23日のことです。
初めてお会いした山中先生は、テレビで拝見した時の真面目そうな印象とは全く違い柔和な方で、時折発する一言一言に懐の深さを感じました。山中先生ご家族と私たち家族は、昔からの知り合いの様に楽しい時を過ごしました。
その後、この食事会は定期的に開催され、沢山の忘れることができないエピソードが生まれました。ノーベル賞を受賞された前日も、二家族揃って楽しく食事をしました。
娘が結婚した直後の食事会では、山中先生がしきりに「平尾さんがおじいちゃんになったら、その時は一番に僕におじいちゃんと呼ばせてくださいね」と、笑いながらおっしゃいました。
平尾が旅立つ前日に、この言葉は現実となりました。娘が新しい生命を授かったのです。山中先生は平尾を「おじいちゃん」と呼んだ最初の人であり、ただ一人の人になりました。