故・平尾誠二さんの妻が明かす、夫と山中伸弥先生の「最高の友情」

全てを打ち明け合った二人でした
平尾 惠子

2016年の2月が、お互いの家族と共にテーブルを囲む最後の食事会となりました。

治療を続ける中で平尾は徐々に体力がなくなり、食事もできなくなっておりましたので、食事会どころかただの外出さえ出来る状態ではなく、キャンセルすることになると思っておりましたが、体よりも心のままに行動したのでしょうか。皆と同じペースで同じ量の食事を摂れないために、「仕事の関係で」とご連絡をし、あえて遅れてまいりました。

平尾の前の席が山中先生でした。

先生のお嬢さんが弓道部でスランプに陥った時、山中先生がいくら言っても脱することができなかったのに、平尾のアドバイスのおかげで克服することができたとおっしゃった時に、「そうでしょう。先生、教えるの下手やわ」と言った平尾らしい辛口な言葉も、わはははと笑う皆の笑い声も、いつもと同じで悲しいほどの心地よさの中、先生は終始、平尾の食する姿を優しい視線で追っていらっしゃいました。

あの日のあの時間、あの空間は、過酷な現実を忘れられる優しさに包まれたものであり、このまま時が止まってくれたらと、ただただ思いました。

全てを打ち明けたのは山中先生だけ

「~だったら」「もしも~」なんてないのですが、やっぱり私は思うのです。

もしも山中先生との出会いがなければ、標準治療さえ受けることなく平尾は逝ってしまったのではないか、と。

告知されてすぐ、平尾は私にこう言いました。

「一瞬一瞬を全力で生きてきたから後悔することは何もないんよ。これが運命なら、もう十分生きたってことやと思うわ。自分が満足してるのに、なんで延命せなあかんの?」

生きる期限を切られている者にとって、抗がん剤等の治療はつらく過酷なものです。告知のあと平尾が山中先生に電話をするまでの一日は、仕事をこなしながら、実は治療を迷っていた一日だったのではないだろうか。

もしも対談の企画が無かったら。

もしも山中先生が研究所の広報の方に対談の内容を確認した時、平尾の名前を聞き逃していたら。

もしも先生が平尾を食事に誘って下さらなかったら――。

山中先生という平尾にとって最強の友の存在があったが故に、平尾らしく強く前向きに、家族のために生と向き合い闘うことができ、最後まで挑み続けてくれたに違いありません。

生還はかないませんでしたが、告知されてから13ヵ月、治療をしたおかげで余命宣告された期間よりもずっとずっと長く生きることができ、その時間は私たち家族にとってかけがえのないものとなりました。

平尾誠二さん、惠子さんファミリー。お嬢さんが子どもを授かったとわかり、山中さんが平尾さんを「おじいちゃん」と呼んだ Photo by 岡村啓嗣


告知されてからわずか数日後、我が家の電話に、平尾の友人から悲愴な声でメッセージが入っており、その内容は平尾の詳しい病状を全て知っているものでした。

知るはずもない人からの連絡に動揺する私をよそに、
「人は話す生き物やからしゃあない。知られてもいい。大変な状況でも頑張ってると思われるほうがずっと良い」

と、平尾は言いました。

平尾ががんではないかという話がまことしやかに流れると、親しい親しくないにかかわらず、ほうぼうで色んな噂が飛び交いました。皆さんそれぞれに平尾の身を案じてのことだったのでしょう。

「平尾に相談されて、平尾を助けるために一緒に頑張っている」「平尾は自分だけに余命がいくばくもないことを話してくれた」などの会話がたびたび繰り返されていたようですが、平尾が自ら頼り、全てを打ち明けたのは山中先生だけでした。

山中先生は、平尾との共通の友人から平尾の体調を案じて尋ねられた時は「○○さんから病状について聞かれたのですがどうしましょう?」と確認してくださいましたが、平尾の答えはいつも同じでした。

「先生、何も話さんといてください」

先生はその約束を最後まで守ってくださいました。それがどれだけ大変なことだったか、13ヵ月の闘病を振り返り、私と子供たちは痛感するのです。
 
どんな時でもぶれなかった平尾の度量にも彼らしさを感じましたが、平尾が平尾らしく生きるために最後まで闘ってこられたのは、決して病気のことを他言せず、平尾のすべてを引き受けてくださった山中先生の存在なくしては考えられません。

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