彼女は、ただの日本人妻ではなかった
ちょうどこのころ、望遠レンズを装着したビデオカメラを使って練馬のマンションの室内を監視していたソトイチの捜査員が、日出子の決定的な行動を撮影することに成功した。
イヤフォンを耳に入れた日出子が、一見すると洗濯ロープかとも思えるコードのようなものを手に持って、室内に張り巡らせていたのである。だが天気の良い日に、洗濯物を室内干しにするわけがない。
ソトイチは、日出子の耳に差し込まれた「イヤフォン」から、ひとつの結論を導き出した。
「日出子は本国からの指令電波を受信しようとしている。彼女もエージェントとして訓練されているに違いない」
同じ時間帯にロシアからの「電波」が飛び交っていたことも確認された。ソトイチはついに、強制捜査を決断した。内偵開始から1年、1997年7月4日のことだ。この日の日出子に特異動向はなかった。
この1年間、24時間態勢で完全秘匿による行確を行ったが、夫・一郎が彼女に接触してきたことは一度もなかった。外形的には夫と別れて暮らしているごくふつうの主婦だった。
「警察です。ご主人の件で捜索をします……」
一郎の旅券法違反容疑での捜索差押許可状をかざして踏み込んだ捜査員は、日出子の激しい抵抗にあい、いったんは押し出されそうになったという。だが、制止を振りきって室内に入り、簞笥や机の引き出しに直行した。
家宅捜索では、「乱数表」「短波ラジオ」「換字表」などスパイ七つ道具とも呼ばれる器具類が見つかった。これらは一郎が、モールス信号による5桁の数字を短波ラジオで受信し、乱数表で翻訳してロシアの指令を解読するために使っていたものと推定された。
さらに、数字を羅列した日出子の筆跡のノートも発見された。やはり彼女自身もエージェントとして訓練され、ロシアからの暗号指令を受けていたのだ。
日出子は夫から「開けるな」と命じられた簞笥の引き出しには手をつけていなかった。誰かが開けた場合にはわかるよう、すべての引き出しに、糊で髪の毛を貼り付けて封印がなされていたという。
捜査員たちは、見られていた
捜査員にとって悩ましかったのは、日出子の取り扱いだった。長時間にわたる調べに対して日出子は「夫がロシア人スパイだなんてまったく知らなかった」と頑強に否定した。
だが、マンションの近隣住民は日出子の不審な行動を目撃していた。
「奥さんは旦那さんが出かける前に降りてきて、あたりをきょろきょろと見回していました。まるで、誰かが監視していないか確認しているかのようだったんです。奥さんが部屋に戻ると、その後、旦那さんが出かけていました」
日出子は夫の指示で「点検」もしていたのだ。
それだけではなかった。マンションの捜索で、「ある物」が発見されたとき、ソトイチの捜査員たちは顔色を失った。
それは、大量の写真だった。日出子が撮影したと見られる捜査員たちの顔写真だ。伝統の追尾技術に絶対的な自信を持っていたソトイチの捜査員たちは、この「ごくふつうの主婦」によって、秘匿追尾中の姿を撮影されていたのである。
彼女は追尾する捜査員に気づくと、脇の下やハンドバッグの陰に隠した小型カメラを使い、後ろを振り向かぬまま、シャッターボタンを押していたのである。完全秘匿で行っていたはずの尾行は、SVR式訓練を受けた主婦にばれていたのだ。
黒羽宅の捜索から2週間後の1997年7月17日、ソトイチは外務省を通じて在日ロシア大使館のウドヴィンに、事情聴取のための出頭を要請した。しかし外交特権を持つウドヴィンは、要請を無視して、すぐに帰国してしまった。
「背乗り」を解明したソトイチは、「黒羽一郎」に成り代わった、氏名不詳のイリーガル機関員に対する逮捕状をとった。そしてICPO(国際刑事警察機構)に対して国際情報照会手配を要請して、国内での事件捜査を終結させた。
一郎に「背乗り」していたイリーガルと、サポート役のウドヴィンはロシアに帰国して、いまでも本国の庇護のもと暮らしているのだろう。もうスパイを引退しているかもしれない。
友人と山に行くと言って姿を消した本物の黒羽一郎氏が生存していることは、残念ながらまず、ないだろう。失踪から17年後の1982年にソ連で死亡し、墓が存在するという情報もある。
元KGBの非合法機関員、つまり「イリーガル」として米国・ニューヨークで活動したジャック・バースキー氏は、私の取材時にこう語っていた。
「私の場合、ワシントンDCのソ連大使館のKGB機関員が、10歳で死亡した子供の出生証明書を手に入れて、私はそれを受け取りました。その出生証明書を使って、図書館のカード、社会保障カード、運転免許、旅券を入手しました。
こうして私は自分の身分を合法化して、就職しました。KGB本部が私にくれた活動資金は7000ドル。最初はメッセンジャーのアルバイトから始め、その後、大学に通いました。私は本国では大学院を卒業して学生を教えていたのに、米国人として生活するために、もう一度大学に通ったのです」
英語圏の機関員の間では「背乗り」を「リーガリゼイション(legalization、合法化)」と呼ぶそうだ。米国では「出生証明書」は国籍を証明する重要書類だ。日本は「戸籍」が狙われる。標的となるのは本物の黒羽一郎氏のように身寄りのない者だ。
旧ソ連やロシアの諜報機関の場合、大使館に派遣されたスパイが、あとからやってくるイリーガルがなりすますための身分を選定し、ターゲットとなった対象人物は欺かれて国外に連れ去られたりするケースもあった。
この「背乗り」という手法が、北朝鮮の工作機関に取り入れられ、見た目では区別のつきにくい、同じ東アジアの国民である日本人を対象に行われるのだ。
「日本で北朝鮮工作機関が『背乗り』を行う場合、対象者の選定は、在日の補助工作員が本国からの指示を受けて行うとみられる」(公安捜査員)
警察庁の資料によれば、統計を始めた昭和31(1956)年以降、平成27(2015)年まで日本の行方不明者数は8万~10万人規模で推移し、8万人を下回ったことはない。(https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/fumei/H27yukuehumeisha.pdf)
このうちの何人が、背乗りの被害に遭っているのか、あるいは行方不明者としてカウントすらされないうちに身分を乗っ取られた人が何人いるのか。いずれにしろ確かなことは、工作員たちは実際に日本に浸透し、活動しているということだ。
私たちにできることは、まずそうしたスパイたちの存在を知り、その手口を知ることで、身近にも潜んでいるかもしれない諜報機関の脅威について、冷静に考えていくことではないだろうか。
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