「八百万の神」を潰そうとした明治政府に立ち向かった男

神社が神社を弾圧した歴史があった

「国のお墨付き」がある神社だけ生き残る

地方の衰退が叫ばれて久しい。

近年「地方創生」をスローガンに掲げる政府は、2014年9月に人口減少対策や地方経済活性化を主軸とする「まち・ひと・しごと創生本部」を立ち上げ、同12月に5カ年にわたる総合戦略を閣議決定した。今年度(2017年度)はちょうどその中間年に当たる。

長期ビジョンの概要には、「人口拡大期の全国一律のキャッチアップ型の取組ではなく、地方自らが地域資源を掘り起こし、それらを活用する取組が必要。また、地方分権の確立が基盤となる」とあり、地方の主体性を前面に打ち出していることがよく分かる。

だが、今この「地方の再生」に血眼にならざるを得ない「地方の衰退」には、150年前の明治政府の強行策に起因している一面があるとしたら……。今回はそのうちの一つを取り上げようと思う。

前回、空前絶後の「ヴァンダリズム(文化破壊運動)」である明治政府の神仏分離令に端を発する「廃仏毀釈」の実態を見たが、神道国教化政策によって切り捨てられたのは、「仏教」と名が付くものだけではなかった。意外なことに地域の人々が信仰する「神道」や、その他の民間宗教も、ほとんど例外なく排除の対象とされたのである。

これが「神仏分離」と双璧をなす「神社合祀」(神社整理)と呼ばれる政策であった。

 

明治政府は、実質的な権力者である薩長土肥という「人による統治」を、「神による統治」という超越性によって担保することを意図して、民衆に「正当な権威としての天皇のイメージ」を浸透させるための「六大巡幸」(明治5年~18年)に乗り出した。

この時期とほぼ並行する形で、明治9年頃から「神社合祀」が開始された。

全国各地で「神仏分離/廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れる中で、すべての神社が天皇との関連度合いによって「格付け」されていったのであるが、最終的には「一村一社の神道式の氏神の成立が目標とされたのであった」(*1)。

これはシンプルにいえば、民衆の素朴な信仰心を涵養しているモノ(信仰の対象物)と情報(教義)を、国家がお墨付きを与えたものだけに制限することを狙った「人心収攬」(じんしんしゅうらん)の試みであった。

地方行政の「イデオロギー拠点」へ

明治39年、明治政府は、一町村一社を原則に統廃合を行う「神社合祀令」を出した。

そこには、荒廃した小祠(しょうし)や淫祠(いんし=いかがわしい神を祀った社・祠)を廃止・統合して国家の祭祀として神社の尊厳を高め、神社を拠点に地方行政への影響力を確保するという明確な目的があった。

宗教学者の村上重良は、明治末期から昭和初期にかけてを国家神道の制度的完成期と捉え、「内務省による神社行政が確立して神社の整理が行われ、官国幣社へ国庫共進金制度がつくられるとともに、祭式等の神社制度が完成した」とする。

そして以後、民主主義や社会主義思想を弾圧し、思想的に対抗するために「神社と氏子組織を、地方行政のイデオロギー的拠点として強化した」とも指摘している(*2)。

最初の3年間で全国各地で4万社もの神社が取り壊され、事業完了を迎える大正2年頃には、19万社から12万社にまで激減したという。

前回取り上げた「神仏分離/廃仏毀釈」では、あえて宗教対立の構図に当てはめた場合、神道が仏教に対して事実上の弾圧を行なったわけだが、「神社合祀」は、いわば「神道による神道の弾圧」として姿を現したのである。

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