そうしたソーシャルメディア以後の感覚を踏まえてか、信憑性に関する非難に対してもウォルフは、異なる人びとの複数の発言を突き合わせることで、もっともらしいストーリーを組み上げるしかないだろう、と主張する。
不確かな状況においてノイズに溢れる情報から、より確度の高い解釈を見出すことは一種のログ解析なのだ。
ウォルフによれば、トランプのホワイトハウスのスタッフは、みなウソばかりをついている。要人に至ってはお抱えの広報スタッフ(プレスセクレタリー)を従えており、自分に都合のよい真実を語るばかりで、PR合戦に興じている。
そんなメーキャップされた公式発言を鵜呑みにしても意味はなく、となるとむしろ、そうした虚像の集積の中から、もっともらしいストーリーをあぶり出すことが優先されてしかるべき。そうウォルフは嘯く。
今まで知り得たこと、すでに公表されていること、それらをもっともよく理解できるものとして再構成するのが自分の仕事だ、と彼は述べる。物語を編み出していることに、何の痛痒も感じてはいない。
ウォーターゲート事件以来、「隠匿された真実の追究」がジャーナリズムの信条と思ってきた正統派のジャーナリストたちからすれば信じがたいことだろう。
(タイミングよくアメリカでは年末に、メリル・ストリープとトム・ハンクスの主演で、ペンタゴンペーパーのスクープの時のThe Washington Postを扱った“The Post”という映画が公開されている。いわゆる調査報道(investigative journalism)の偉業の一つだが、WikiLeaksの行動が毀誉褒貶はあれど一定の支持を得ているのも、こうした「隠匿情報の暴露」が一つの流儀であるからだ。)
だが厄介なのは、ウォルフ流の憶測混じりの半ばフィクションのような書き方がポスト・トゥルース時代の真実のあり方だといわれれば、そうなのかもしれないと思えてしまうところだ。
それぞれの「私の真実」
そもそも政治の世界では、公正な裁定者を最終的には期待できない。本質的に「私の真実」をぶつけ合う世界であり、その結果、もっともらしい「私たちの真実」が生み出され共有されていく。
24時間体制のソーシャルメディアは、そうした仕掛けこそを人びとの前に晒してしまった。ウェブの中で真実が今にもつくられている。その感覚が書籍の形を取ったのがウォルフ本なのではないか。
となるとポスト・トランプの、ソーシャメディア時代のジャーナリズムにおいては、ゴシップ込みの傍流的なジャーナリズムこそが、むしろ本流のジャーナリズムになる、といえてしまうのかもしれない。
きれいは汚い。汚いはきれい。まるで『マクベス』だ。
もちろん、ある種の品性を問われるのはまちがいないが、予め誰かの間で密議がかわされたものを暴く、というのとは意味合いが異なる。
集団の合意事項になる前の「俺の意見=真実」がいくつも漂っている中で、「真実らしきもの」、あるいは「今後真実とされるもの」を、関係者以外の人びとも目にしてしまえる。それが24時間体制のソーシャルメディア時代であり、そこでは複数の「俺の真実」を突き合わせるところからすでに目撃は始まっている。
それゆえ、むしろ行間を読み文脈をつくることが、ジャーナリズム――もはやそれをジャーナリズムとは呼ばないかもしれないが――の役割と期待される。だとすればゴシップまみれのイエローなジャーナリズムも一概に無視できなくなる。
政府の行動を政治学的正しさの基準で判断することよりも、そうした判断者当人たちの心理状態まで加味した上で、その動機や情動まで視野に入れた合意や妥協の力学を理解し、見通すようなものが求められる。観客も渦中にあると信じている。動的なのだ。
決定内容、あるいは決定プロセスの真偽に関心が向かうのではなく、そもそも、そのような決定内容はいかにして思いつかれたのか、という初発の心理にまで関心が向かってしまう。そこでは、真実/真理以前の、思いつき=スペキュレーションの段階での動きこそが気になってくる。
この点で、玉石混交の、ナマの動きを取り出してみてたウォルフに、時代が味方してはいないだろうか。