私たちは数多くの“死霊”と出会ってきた
これから私は「幽霊」の話をするつもりである。震災後に出会ってきたおびただしい数の死者の霊についてだ。
しかし残念ながら、「幽霊」を私がこの目で見たり、会話を交わしたという話ではない。
震災以降、被災者が亡くなった近親者や仲間の霊に出会った、あるいは被災地で見ず知らずの人の霊とコミュニケーションをとったなどという、“霊体験”を記録した出版物が何冊も刊行された。
そうした読書体験をとおして、私も数多くの霊と出会ってきたというのである。
被災地における霊体験の記録者は、宗教家、宗教学者、社会学者、ノンフィクション作家、フリージャーナリスト、新聞・通信社の記者と幅広い。しかし内容が重なるものも少ないのは、読者の需要があるからだろう。
1万5000人以上の死者を出した大震災について、だれもが事態の全容をつかみかねずにいる。そこで大震災から距離をおく人々を中心に、“残酷な事実”をイメージし、情緒的に理解することを期待して、神秘的な霊体験、霊魂譚を読もうとするのだろう。
そうした霊魂譚をいくつか紹介しながら、民俗学の視点から、生者と死霊の遭遇が意味するところを考えてみたい。

さまざまな霊魂譚
テレビのドキュメンタリー番組でも取り上げられた有名な“霊魂譚”に、津波で亡くなった子どもが生前に遊んでいたおもちゃを、親の前で動かしたという話がある。
その子どもの母親が食事をするとき、祭壇に向かって「こっちで食べようね」と声をかけると、子どもが愛用していたハンドル付きのおもちゃの車がいきなり点滅し、音を立てて動き出した……。
次のような霊体験も印象的だ。
震災前に住んでいた家の前で、携帯を使って写真を撮ってみると、小学校で津波に巻き込まれ、行方不明になったままの子どもの顔が写っていた。
その出来事以来、だれかが天井を歩いたり、壁を叩いたりする音が聞こえるようになった。物音が奏でるリズムは、落ち着きのなかった子どもの生前の性格を思い起こさせる……。