現役証券マンにして作家の町田哲也氏が、
2度の手術を乗り越え入院中の78歳の父は、20代のころ岩波映画でカメラマンとして働いたことを生涯の誇りにしている。サラリーマンのかたわら小説を書いている「ぼく」は、「作品をつくる」ことの喜びを若き父も感じていたはずだと考え、これまであまり知らなかった父の過去を調べるようになった。
しかし、調べても調べても、ほとんど実りはなかった。「ぼく」の脳裏に浮かんだのは、学生小説コンクールで賞を受けたときの父の反応だった。
小説を書き始めた理由
ぼくがはじめて小説を書いたのは、大学生のときだった。
昔から表現することへの憧れは漠然と持っていた。音楽を集中的に聴いたり、演劇のサークルに入ったりしたことはあるが、自分で表現しようとすると大きな壁を感じてしまう。これならできるかもしれないという感覚をはじめて持てたのが、小説だった。
題材はいくらでもあると思っていたが、書きはじめるとハードルがあった。一番大きな障害は、なぜ自分が書くのかという必然性に納得できないことだった。
自分でなくても書ける小説に過ぎないと思うと、目の前の作品が色あせて見えてしまう。そんなとき、ぼくが直面したのが祖母の死だった。
母方の実家は、戦前から小田原で和菓子屋を営んでいた。国府津海岸から小田原方面に少し歩いたところに、親木橋という橋がある。そのすぐ近くに店を構えていた。
祖父が祖母と2人で開業した小さな店で、子どもの頃ぼくが好きだったのが大福だ。できたての柔らかい餅に塩味のきいた豆と甘い餡子が美味しくて、1日に3つも4つも食べたことがある。一時はキヨスクに納品したこともあった。
祖父はすでに亡くなっていたが、祖母は80代でも元気に働いていた。そんな祖母が入院し、徐々に体力が衰えていく姿が学生時代のぼくには鮮明に残っていた。
次第に幼児返りしていく祖母の姿を、異文化コミュニケーションのなかに置いたらどんなストーリーが描けるだろうか。それが小説の出発点になった。
現実の自分に近づけ過ぎないように、祖母を祖父に置き換え、設定を日本から米国にすると、細部が描けるようになった。書き終えたのは、海外の長期旅行の最中だった。
大学3年の春から夏にかけて、ぼくは海外放浪のまねごとをしていた。米国の東海岸から入り、欧州を経由してニューヨークで夏を過ごす。その数ヵ月の間に小説は完成した。

締め切りの時期と枚数から一番近いのが、当時新潮社が募集していた「学生小説コンクール」だった。その名の通り、学生であれば応募できる。自分の書くものがどんなジャンルに属するのかといったことを考える必要がないのもよかった。
応募して数ヵ月経った頃、新潮社の鈴木力という編集者から電話があった。大学4年生への進級を前に、就職活動の準備をしていた頃だった。海外から帰ってきたぼくは、当然のように日本で就職しようとしていた。夜遅くの電話が、意外に長く鳴り響いたのを憶えている。
「町田さんですか?」
ぼくは返事をすると、夜遅い電話を恐縮しながら、早口で自己紹介する声が聞こえてきた。
「新潮社の鈴木と申します。あなたの作品が最終選考に残ることになったので、ご連絡しようと思いまして」
「小説って、学生コンクールですか?」
「そうです。最終選考作品に選ばれました。ニューヨークの寮にも電話したのですが、もう日本に帰ったといわれてしまいまして……」
「そうなんです。向こうから送ったんです」
ぼくは日本に帰ってきてからの生活の変化で、小説を応募したことをほとんど忘れていた。決して気にしていないわけではなかったが、自分の作品が選ばれるとは思っていなかった。
その証拠に、応募した作品を何度か書き直していた。何となく書き切ったという手ごたえを持てず、書き進めることで少しだけ前に進んだような気がしていた。
数日後、ぼくは書き直した原稿を持って矢来町にある新潮社に向かった。会議室に通され、鈴木氏が来るのを待つ。窓もない会議室で、不思議な圧迫感があったのを憶えている。しばらくしてノックの音がすると、鈴木氏が入ってきた。
小柄で、編集者としては意外にもネクタイをしている。何度か村上春樹のエッセイで鈴木氏のことを読んだことがあったので、イメージ通りの親しみやすさがあった。
ぼくが挨拶もそこそこに原稿を渡すと、鈴木氏は一気に読みはじめた。