「バッシング」で劇的に後退した日本の性教育
では、日本の性教育の課題はどのようなところにあるのでしょうか。それは現在に至るまでの、性教育を取り巻く歴史から、垣間見えてきます。
日本の性教育の歴史を振り返ると、1980年代のエイズ・パニックをきっかけとして、若者に性の知識を教えなければならないという意見が強まり、1990年代になって「性教育ブーム」が起こりました。
1992年は「性教育元年」とも呼ばれ、学習指導要領が改訂・施行されて、小学校段階から「性」を本格的に教えるようになりました。また、教育現場では性教育の研究授業が盛んにおこなわれました。子どもや保護者の要請も受けて、現場でさまざまな工夫がなされ、発展し始めた日本の性教育ですが、2000年代初めに状況は一変します。
「性教育バッシング」が湧き起こり、日本の性教育の発展はストップし、萎縮してしまったのです。そのきっかけとなったのは2003年、都立七生養護学校(現・七生特別支援学校)で行われていた性教育を、冒頭で触れた古賀俊昭都議ら一部保守系の都議が中心となって問題だと指弾し、メディアも「過激な性教育」とセンセーショナルに取り上げた結果、七生養護学校に関わる教育関係者が都の教育委員会によって処分され、その後も性教育バッシングが続く状況になってしまったのです。
翌2004年、都教育委員会は「性教育の手引き」を改訂し、小・中・高いずれの学習指導要領でも、そもそも「性交」は、子どもに理解させることは困難であるからとして、授業で示すことさえせず、中学校の保健体育でもコンドームの装着の方法を取り上げないなどと強調しました。さらに、このバッシングを受けた動きは国レベルにまで広がり、文科省の定める学習指導要領でも都教委の「手引き」同様、中学校で「性交」「セックス」は扱わないことになり、中学校保健体育の教科書では、「性交」ではなく「性的接触」という言葉を使うこととなったのです。

その一方で、ことの発端となった七生養護学校へのバッシングを主導した古賀都議ほか計3名の都議、および都教育委員会は「教育の自主性を阻害」するなど「不当な支配」を行ったと裁判所に認定され、原告である教員らに賠償金を支払うこととする判決が確定しています(2009年東京地裁判決、のち東京高裁。2013年、最高裁で教員らの実質的な勝訴が確定)。
さらに、その裁判の過程で、「学習指導要領は、おおよその教育内容を定めた大綱的基準であり、記載されていない内容を子どもたちに教えることが、ただちに違法とはならない」という点が確認されたのです。
ところが、その事件にかかわった、まさに同じ都議と都教育委員会が、2018年の今、中学校における性教育に、またしても「学習指導要領にない」と言って「待った」をかけていることには、驚きを禁じえません(なお、都教育委員会の『性教育の手引き』は、2004年以来、一度も改訂されていません)。
結論:「性教育が『寝た子を起こす』ことはない」
性教育で具体的な内容を教えることを拒絶する人々は、どのような理由で、そうした教育を問題視するのでしょうか。日本では、よくその理由として、「性教育によって子どもたちが性的な関心を増したり、性行動が早まるのでは」という「寝た子を起こす」という現象がある、という主張がなされます。
当然ながら、こうした懸念は、日本でだけ指摘されてきたものではありません。そこで、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、実際、「寝た子を起こす」現象が起こるのかという点について、WHO(世界保健機関)などとも連携しながら、世界中の性教育の調査を行っています。その結果、「包括的な性教育」は、若年層の性行動を早めることはないばかりか、性行動をより慎重化させると結論付けられたのです。
「包括的な性教育」とは、性をセックスや出産のことだけでなく、性を通して人との関わり方や相手の立場を考えることも含めた性教育です。
包括的性教育では、科学的に正確な情報を幼少期から文化・年齢に応じて与えながら、子どもたち自身が考え、また様々な考え方にふれることが重要なポイントとされています。具体的には、
・社会の中で、どのように自分の性・ジェンダーのあり方を選ぶのか
・自分がいつ、だれと性行為を持つか、どのような避妊法を使うか
・いつ子どもをもち、どのような家族をもつか
・自分と相手を大切にするためにはどうしたらよいのか
など、子ども・若者が自分で考えて決められる力を育むことが目的とされています。性を肯定的にとらえること、そして必ずしも一つの正解があるわけではなく、多様なあり方が存在することを前提とするという考え方に基づくものです。
2009年、ユネスコは、効果的な性教育の指針として『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』(http://unesdoc.unesco.org/images/0018/001832/183281e.pdf)を発表。2017年には、日本の性教育研究者により日本語訳(http://www.akashi.co.jp/book/b297731.html)も出版されました。欧米だけではなく、韓国、台湾、中国といった東アジアの国々でも、この『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』が求める包括的な性教育に向けて、性教育の制度的基盤を整えつつあるといいます。
ところが、日本の文科省は(いえ、ほとんど日本の文科省「だけは」と言ってもいいでしょう)、いまだに性教育を積極的に推進する姿勢を示していません。一般的に、日本は高い教育水準にあると言われますが、こと性教育に関しては「最後進国」として世界に取り残されつつある状況だと言っても過言ではありません。