田舎の中にも格差がある
つづいて私が取り上げたいのは、「私も田舎の出身だが、こんなことはありえない」という反対意見である。釧路を直接に知る人々、あるいは釧路と同程度か、釧路よりも規模の小さい市区町村で育った読者からの反応も含まれているようだ。
これは田舎を知らない人々からの反動的な否認とは性質が異なるので、応えておくべきだろう。
まず感想を述べておきたいが、私は彼らからの批判にもっとも心を痛めた。都会人に無視されるのはまだいい。そして田舎しか知らない人々は格差に無自覚であることがおおい。したがって、この批判を寄せた人々こそは、おそらく田舎と都会の両方を知る、もっとも私の意見に賛同してもらいたい層だったのだ。
では、田舎も都会も知っている人々から厳しい反論が寄せられたのはなぜなのか。
これは田舎の内部に存在する、また別の格差に起因しているように思われる。
前記事では田舎と都会という二分法を強調したので、この問題には補足的に言及するにとどめざるをえなかったが、もちろん、田舎の問題とて複合的である。都会から同様に地理的に隔てられた田舎であっても、経済的な格差、親や親戚の学歴、学校や先生の教育方針、などなどが絡み合って各人の大学進学可能性は決定される。
したがって、田舎者のあいだにも認識の差があるのは当たり前である。つまり上述の意見が示しているのは、田舎の情報強者にも田舎の情報弱者は見えていない、という事実だ。
このことは私にとって盲点だった。私は北海道全体で見ても上位とされる高校に進学したので、田舎者としては情報強者の上澄みに属していたと信じていた。だが、私のような「高校生活の後半まで大学受験が視界に入らない人」の存在は、「大学進学は当たり前と思っていた」高校生の眼中には、入っていなかったのだ。
これはイジメを知らない人間による「うちの学校にはイジメなどなかった」という意見に似ている。あるいは、高校に進路指導が存在することが私の意見と矛盾するように感じられるとすれば、それは「カウンセリング室があるのにイジメられていたのはおかしい」と主張することに近い。
それは高校のせいではない、お前のせいだ、
では私のような無知な若者は、統計的には無視してもいいような、ごく特殊な情報弱者だったのだろうか?
そうではないだろう。田舎の内部にこのような格差が存在し、かつ、私がけっして特殊な少数派ではないことは、繰り返すが、私の記事が自分たちの鬱憤を言語化し代弁してくれたというリアクションが大多数だったことから、明らかであるように思われる。
もしかすると私は、母校の高校においては大学進学の知識に関して最下層に属したのかもしれない。だが、そもそも私は自分の通っていたような成績上位の高校だけを問題にしているわけではないのだ。
こうした反論の多くは「田舎を馬鹿にするな」という憤りから発せられたようだ。自分が「田舎者」に属すると考える人がそのように感じる気持ちは、よくわかる。
だが実際には、田舎を馬鹿にされたと感じた人々、感じることが「できた」人々は、田舎の情報強者、さらにそのなかでも最上位の上澄みに属していた可能性が高いように思われる。
どのような種類の格差でも、恵まれている側はそのことになかなか気が付かないものだ。ましてそれが目に見えない意識の差なら、なおさらである。