「人生で一番は、小学校くらいのときでした」。あの言葉は、ジョークではなかった。メジャーリーグを騒然とさせているスーパースターの源流を、そのころ一番近くで見ていた女房役が証言する。
速すぎて捕れなかった
「翔平のボールを初めて受けたときのことは、はっきり覚えています。正直、ものすごく怖かった。ストレートがあまりに速すぎて、まったく捕れなかったんです。
岩手の冬は雪が積もるので、暗い屋内練習場でのピッチング練習だったこともありますが、球が全然見えず、まるで練習になりませんでした」
こう語るのは、エンゼルスの大谷翔平(23歳)が少年期に所属していたチーム・水沢リトルリーグで女房役のキャッチャーを務めていた佐々木遼輔さんだ。
4月8日のアスレチックス戦、7回を1安打無失点、12奪三振の内容で2勝目を挙げたあとの記者会見で、「(今日が)人生で一番の投球か」と尋ねられた大谷は、口元に笑みを浮かべながら答えた。
「人生で一番は、小学校くらいのときでした」
ジョークだと思われたのだろう。記者会見場は笑いに包まれた。
だが、佐々木さんは「あれはきっと翔平の本音でしょう」と言う。
「いまに続く翔平の原型ができあがったのは、小学生のときだった。それは、間違いないと思うんです」
二刀流で、球史に名を刻むことになる怪物を目覚めさせた小学生時代とは、いったいどのようなものだったのか――。
大谷が初めて水沢リトルのユニフォームを着たのは、小学3年生に上がる直前だった。
「水沢リトルは、主に小学5年生までが所属するバンディッツと、小学6年生と中学1年生が所属する上級生チームのパイレーツの2つのチームにわかれていました。
普通は5年生の終わりにパイレーツに上がれますが、すでに上級生に負けない実力のあった翔平は、5年生になってすぐ『飛び級』でパイレーツに進んでいた。なので、僕が翔平の球を受け始めたのは5年生の冬からです」
大谷は、チームの監督を務める父・徹さんのもとで鍛え上げられ、5年生時には球速110kmを計測するようになっていた。6年生でも100kmがせいぜいと言われるなかで、すでにそのポテンシャルを見せつけていたのだ。
リトルリーグにおいて、ピッチャーからキャッチャーまでの距離は、約14mと非常に短い。この距離で110kmのボールを投げられれば、キャッチャーの体感速度は130kmを超える。まだ5年生の佐々木さんが恐怖を感じたのも無理はない。
このままでは、大谷のボールは捕れない。子どもながらに危機感を覚えた佐々木さんは、恐怖を払拭するための練習を重ねたという。
「僕の父親もリトルリーグでコーチをやっていたので、普通の練習が終わったあと、5mほどの距離からボールを投げ込んでもらい、速い球に目を慣らそうとした。でも、最後の最後まで、翔平の球をミットの芯でいい音をたてて捕れるまでにはなりませんでした」
当時の、大谷の投球を収めた映像がある。
力むことなく、ゆったりと振りかぶって左足をあげると、そこから長い腕をムチのようにしならせ、キレのあるボールを佐々木さんのミットに投げ込む。身体の線こそ細いものの、現在の大谷のフォームに通じるしなやかさが、確かに感じられる。
ピッチングはもちろんのこと、バッティングでも大谷はすでに規格外の逸話を残し、「二刀流」の片鱗を見せている。
水沢リトルのグラウンドは奥州市内を流れる胆沢川の河川敷にあった。
「川はライトの奥に流れていました。フェンスはホームベースから60mくらいのところにあって、川まではそこからさらに10mくらい距離があった。普通はフェンスを越えても川まで飛ぶことはまずありません。
ところが、翔平はバッティング練習で打球を次々と川に放り込んでしまうんです。硬式ボールは、一度水に濡れると使い物にならなくなってしまう。翔平は監督から『引っ張り禁止』を命じられていました」