「思考=言語」ではない
わたしたちが何かを考えているときには、頭のなかで、そう考えている声が聞こえるような気がする。その声は言葉を話している。
そのため、自分がどうやって思考をしているのか、意識にもとづいて判断すると、「『考える』ということは、『頭のなかで言葉を話す』ことだ」と確信してしまうことになる。
何人もの高名な哲学者がこの確信を記してきたので、この説は世間に広まり、多くの人びとが信じるようになった。
ところが、20世紀の後半になって、認知心理学が台頭し、意識に頼らない科学的な方法で心のはたらきを調べるようになると、様相が変わってきた。
「思考のなかでは、言葉に頼らない部分が大きい」ということがわかってきたのである(たとえば、スティーブン・ピンカーの『言語を生みだす本能』や『思考する言語』を参照)。
認知科学は、言葉をつかって人間とやりとりをするAI(人工知能)を実現しようと、さまざまな研究をつづけてきた。そうした研究のなかでも、「思考には、単語や文法とは関係のない、非言語的な情報処理が大量に必要だ」ということがわかってきた。
動物心理学の発展にともなって、言葉をもたない動物でも、かなり高度な思考を営んでいることが明らかになってきた。チンパンジーや、犬や、カラスが、驚くほど賢い行動をとる、そんな場面をテレビで見たことがある読者も多いのではないだろうか。
今では、「『考える』ということは、『頭のなかで言葉を話す』ことだ」という極端な主張をする専門家は、まず、いない。
せいぜい、「母語の特徴が思考に影響する」と主張する研究がときおり現れるぐらいで、それも、たいがいは、すぐに反証の山に埋もれてしまう。

「英語で考える」は錯覚
では、なぜ、わたしたちは「日本語で考える」とか「英語で考える」とか感じるのだろうか?
思考の大部分は、じっさいには、無意識のうちにおこなわれる非言語的な情報処理に支えられている。その情報処理の結果が言語化され、意識にのぼる。言語化をするとき、ふつうは、使い慣れた母語に言語化する。
その母語が意識にのぼるので、「日本語で考えている」という「実感」が湧くのである。その日本語を英語にしようとすると、当然、「日本語を英語に翻訳している」という「実感」が湧く。
しかし、英語に慣れてくると、非言語的な情報処理の結果を言語化するとき、日本語を経ずに、直接、英語に言語化できるようになる。そこで、「英語で考えるようになった」という「実感」が湧くのである。
ほんとうに「日本語で考える」とか、「英語で考える」とかいうことをしているわけではない。
こうしてみると、「言語の情報処理が思考の情報処理を邪魔する」という話も、別段、おかしな話ではないように思えてくるのではないだろうか?
とはいえ、そんな理屈をこねるよりも、じっさいに思考力が低下している証拠を示したほうが、話は早いかもしれない。次回は、その証拠をどうやって示すか、という話をすることにしよう。
(つづく)
スティーブン・ピンカー(椋田直子訳) 『言語を生みだす本能(上・下)』(日本放送出版協会、1995年)
スティーブン・ピンカー(幾島幸子・桜内篤子訳) 『思考する言語 ― 「ことばの意味」から人間性に迫る(上・中・下)』(日本放送出版協会、2009年)