2018.06.05
# 戦争

76年前の今日、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた大嘘

搭乗員たちが語り残した真実とは?
神立 尚紀 プロフィール

敵発見の遅れを、罪なき索敵機に追わせた参謀

次に、索敵と情報の分析。

当初の予定では、空母に搭載される九七式艦上攻撃機のうち十機を索敵に回し、二段索敵(索敵機を間隔を置いて二回に分け、同じ索敵コースを重複して飛ばせる)の万全の態勢で臨むはずだったが、機動部隊司令部の状況判断の甘さから、索敵機の機数を大幅に減らしてしまっていた。

空母「赤城」「加賀」と第八戦隊の巡洋艦「利根」「筑摩」、戦艦「榛名」から出した索敵機は七機(うち九七艦攻二機)、一段索敵で七本の索敵線である。これではあまりにも少なかったし、索敵機の発進は対潜哨戒機を出した後のことで、付近に敵空母は存在しないという先入観にとらわれていたと言われても仕方のない生ぬるさであった。

その上、各索敵線で発進が遅れがちになり、特に重巡「利根」四号機(零式水上偵察機、機長・甘利洋司一飛曹)の発進は30分も遅れてしまう。

『ミッドウェー』には、

〈利根機の発進三十分の遅延は、はからずもここに本海戦失敗の致命的原因を潜めたのである。〉

とある。

 

しかしその、遅れて発進した四番索敵線の利根四号機が、予定索敵線から北に150浬(約278キロ)もはずれた方角で、十隻の「敵らしきもの」を発見した。

〈「敵らしきもの一〇隻見ゆ。ミッドウェーよりの方位一〇度二四〇浬、針路一五〇度、速力二十ノット、〇四二八(注:午前4時28分、日本時間)」
南雲中将をはじめ司令部の人々は愕然とした。(中略)
「敵らしきもの十隻、とはなんだろう」
と、参謀たちは首をひねった〉(『ミッドウェー』より)

さらに約一時間後、粘り強く触接(しょくせつ)を続けた同機はついに「敵空母らしきもの」一隻の発見を報じてきた。この期におよんでなお、司令部では、

〈それでも、なお「らしき」ときているので、ほんとに空母がいるのかなあと、半信半疑の割り切れない思いを抱いている。〉

と、『ミッドウェー』には記されている。あたかも、甘利機の索敵報告に不備があり、それが司令部の判断を遅らせたと言わんばかりの書き方である。

「冗談じゃない、『らしきもの』という表現は、暗号書に正式に記載されている信号文ですよ。確認しているうちに撃墜されたら元も子もないので、敵らしきものを発見したらまずそう通報するように、偵察員は教育されている。『まず第一報を入れよ、その解釈は司令部が考える』というのが、洋上索敵の大前提なんです」

と、憤りをあらわにしたのは、このとき、空母「加賀」から発進した索敵機、九七艦攻の機長だった吉野治男さん(当時・一飛曹、のち少尉)である。

吉野さんは昭和13(1938)年、海軍に入隊した甲種予科練二期の出身で、「利根」四号機の甘利一飛曹とは同期生である。雷撃(魚雷攻撃)隊の一員として真珠湾攻撃に参加して以来、多くの実戦で場数を踏んできた吉野さんは、その実力を認められ、索敵のエキスパートとしての専門教育を受けていた。

「フロートのついた低速の甘利の水上偵察機が、敵戦闘機や防御砲火を避けつつ、ここまで触接を続けられたのは大変な努力の賜物です。よく映画で、索敵機が高い高度から雲越しに敵艦隊を発見したように描かれていますが、そんなことはありません。高高度からだと天候に左右される上に敵に発見されやすく、逆に敵艦を見つけにくい。

索敵機の飛行高度は300~600メートルが通例で、私のこの日の飛行高度は600メートルでした。低空を飛んで、水平線上に敵艦を発見した瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。敵に遭えば、墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよ、と私たちは教えられていました。

たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送。『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は『殊勲甲』だと言うんですよ。甘利機が一時間以上も触接を続けられたのは、私らはほんとうにすごいことだと思う。『らしきもの』の報告で判断が遅れたなんて、そりゃあ、命じておいて信号文も知らない司令部がボンクラなんです」

空母「加賀」から索敵に飛んだ吉野治男一飛曹(のち少尉)

甘利機が予定コースを大幅に外れていたことについては、吉野さんと同じく、予科練同期生の小西磐さん(少尉)が戦後、当時の資料をもとに精密な類推を試みている。これは甘利一飛曹の航法ミスではなく、日米の記録を照合すると、このとき、「利根」航海士が天測で導き出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあり、実際の出発点から索敵線を引けば、甘利機のコースとピタリ一致するという。

本来ならば、「敵艦隊発見」の殊勲を讃えられるべき甘利機についての『ミッドウェー』の記述は、

〈甘利をスケープゴートに仕立てて、作戦失敗の責任をかぶせるために狙い撃ちにした、悪質な欺瞞〉

だと、ベテランの水上偵察機搭乗員だった戸澤力さん(大尉)は、手記「ミッドウェー海戦 惨敗の真相と海戦史歪曲」(甲飛二期会)のなかで断じている。

敵艦隊発見の一報から数十分遅れて、南雲長官は、陸上攻撃向けに転換した第二次攻撃隊の爆弾を、ふたたび魚雷と通常爆弾に転換することを命じた。一刻を要する戦いの最中に、機動部隊のとった行動は、ことごとくとろくさいものであった。陸用爆弾でも、命中しさえすれば敵空母機の発着艦を封じることはできる、あのとき、兵装転換などさせずに即座に攻撃隊を出しておけば……というのは、戦後延々と言われ続けている繰言である。

甘利機の話題に隠れて見落とされているのが、甘利機の北隣り、五番索敵線を飛んだ、「筑摩」一号機(機長・都間信大尉)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら、雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのである。

前出の吉野さんは、

「雲の上を飛んでいて、索敵機の任務が果たせるはずがない。雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後、そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

と容赦ない。甘利機に続いて、敵艦隊との触接に成功した「利根」三号機(九五式水偵)、「筑摩」五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば、「敵前逃亡」ととられても仕方のないものであった。

もちろん、「利根」四号機にせよ、「筑摩」一号機にせよ、これだけの大海戦での歴史的敗北の責任を一索敵機に負わせるのは酷であろう。だが、ひとり「利根」四号機だけが悪く言われることに対し、現場の搭乗員の側から強い異議が出されていたことは記憶にとどめておきたい。

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